黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

文章力とはなんだろうか

この間久しぶりに作文とやらを書いた。作文とは読んで字のごとく、文章を作ることだから特に難しいことではないはずなのだが、言葉が出てこなくて驚いた。内容のない文章を書くのはいたって容易なことだが、筋道立てて物事を説明しようとすると急に難易度が上がる。ブログを書いていれば、文章力とやらが上がるというのは大間違いなことがよくわかる。自分のブログを改めて読み返してみると、全く持って内容がない。200字もあれば説明できることを1000字もかけて説明している。この手の技術は新書に良く使用されていて、A43~4枚で書き終わることを200ページ近くにまでするのだから、熟練の技である。内容を引き延ばすだけ伸ばして、1000字程度になると飽きてしまう僕としては見習いたいものである。
この手の薄く引き伸ばす技術というのはあらゆるところで応用されており、5分で終わる仕事に1時間かけたり、わざわざ果汁50%のジュースを作ったりと用途は様々なうえ、我々の人生も最近は長寿という名のもと、薄く細く引き伸ばされていると言えよう。当方、太く短く行きたいと思っていた時期があったものの、最近は少しは長生きしたいなどと戯言をのたまうようになっており、老害化が心配されている。
とまあ、このように必要のない話題を執拗に書きたがると、だんだんと文章が肥大化してくるわけで、これは割とよくあることなのだけど、書いているうちに何を書きたかったのかわからなくなってしまうのである。今回に関してはきちんと覚えているわけだが、この手の文章にありがちなのが、論旨が気が付かないうちにすり替わっているということだ。これを切迫した会話で行うと、誤魔化すな、などと罵詈雑言を浴びせられることが多いの要注意である。酔っ払いにありがちという噂もよく聞く。ただ、最初の論旨に固執し過ぎてしまうと会話はあまり続かないわけで、そういう意味では話題の転換のうまさが会話のうまさに直結していると言える。
ところが、会話のうまさは文章力には直結しないのである。文章力には定義が様々あると思うが、基本的には論理がしっかりと帰結しているというものが主だろう。物語でもよく伏線が...などといわれるが、いわゆるそれである。要するに書くまでの準備が必要不可欠なわけで、その段階でしっかりと土台を組んでいれば、多少拙い文章でも文章力があるように見えるのだ。つまり表現力と文章力とは別物で、読みやすい文章というのは基本的に論理の連結が把握しやすいものだと感じている。
そう考えてみると、僕の文章はレトリックが多くて、論理の連結がぐちゃぐちゃなのがわが目から見て日の目を見るより明らかで、そうした意味では作文が苦手だというのはあながちわからないでもないなあと感じるわけである。文章力とか言って、書いてりゃつくものじゃないんですわなあ。

健康と健全

人は不健康になった時に健康の重要性に気づくものだとはよく言う。風邪を引けば、ちゃんと体調管理をしようと多くの人が思うことだろう。しかし、またいつの日か同じことを繰り返す。継続すること、記憶し続けることはとてもつらいことだ。若いうちは健康であることが当たり前である以上、健康を意識することは不健康であることの証なのだということをみな無意識的に気づいているのかもしれない。
昨今の健康ブームというのはそれを如実に示していて、それは多くの人が健康でない状態にあるか、高齢化が進んでいることを表しているともいえる。年を取れば、自ずと体力が落ち、体のどこかしらに不調を覚えるようになる。そうした時に生じるのは一過性の痛みのみならず、自分の体への落胆もあるだろう。そして、それは若さへの渇望にも似ていて、そこから生じる日常生活への不安は継続性を伴ったものとなる。多くの人を行動に走らせるのは願望のような前向きな考えよりも不安のような負の感情だ。わずかな痛みと未来への不安を伴った体は健康への強い執念に似た何かを生み出すだろう。若い人間よりも年老いた人間が生への執着を示すのは体の不調があるからのようにも思える。
今ではだいぶ無くなったが、僕自身も10代の頃は健康でないことに対する憧れのようなものはあった。暗いところでわざと本を読んだり、夜遅くまで起きていたり。それは好奇心に似た何かのようにも思えるし、単なる反発のようにも思えるが、何にせよ未知の何かへ変化することを望んでいたのだと今となっては思いたいものだ。とはいえ、そうした健康に対する何かを鼻白んでみていたのも事実だ。今となっては失笑物だが、若さゆえの傲慢ともいえるだろう。いわゆる中二病というやつだ。
しかし、どうしてそんなに健全であることに対してアレルギー反応を起こしてしまうのだろう。やっぱり国民性的な何かなのだろうか、たとえば判官贔屓的な(ちなみに「ほうがんびいき」と読むことを今知った。テキスト変換であらゆる間違いに気づけるこの時代というのは本当に便利である)。正義のヒーローを望むのはディスプレイの向こう側のみである。いやこのご時世ディスプレイの向こう側ですら、嫌がられるのかもしれないが。
これは思うに多くの人が自身の悪性に対して意識過剰になっているからなのではないか。人によって正しさというのは当然異なるわけだが、そうした中でも常識の名の元、ある程度の規律が求められる。これは各共同体によって大きく異なるわけだが、それがある程度のラインを超えるとある種の悪性に対して極度に敏感になってしまうのだ。これは他者への非難と共に自身のそうした側面を自覚させる作用も当然生じさせる。自身の悪性に気づいてしまえば、言われもなき正義というのは疎ましいものだ。そんなものは信じられない、あんないいことしてるけど、どこかに悪いところがあるはずだ、となる。良くも悪くも平等意識が芽生えてきたともいえるのだろう。
しかし、病気のときは健康になろうと試みるのに、自分が悪いと気付いた時はそれを治すのではなく周りも悪いはずだ、となってしまうのは面白い。精神的なものは性質だとあきらめてしまうのだろうか。それか単にメリットを感じられないからなのだろうか。生きるために良くあろうとするというのは動物の生存本能として当たり前のわけだが、逆に考えればそうした道徳や素晴らしい生き方というのは動物が本来持ちえないものだと言えるのかもしれない。まあ当たり前といえば当たり前の話なんだけど。

頭は使わないとどんどんとダメになるね

思い返せば、ここ数年勉強をしていない。そう書くといささか語弊があるけれど、いわゆる受験勉強なものからは遠ざかっている。大学が単科大学だったこともあり、一般知識に関しては大学受験以来全くと言っていいほど疎かだ。これは僕だけでなく、多くの大学生もそうなのかもしれない。より専門的な知識を得るにあたって、それ以外の部分というのは自ずと遠ざかっていく。大学は研究機関であって、教育機関ではないわけで、自分の興味からそれたものに対して、アプローチをしてくれることはそうそうない。受験勉強をあまりよくいう人は聞かないけれど、そうした意味では非常に有用なものだ。基礎的な知識というのはあらゆる思考のベースとなるし、趣味としての教養ともなる。高校時代に死ぬほど成績が悪かった僕が言うのもアレだけれど、興味がないものにも最低限の知識を持っているということは大事なのだと思う。
うだうだと書いてみたものの、別に勉強しろ、というわけでは全くなくて、どちらかというと、久しぶりに参考書を開いたら、ほとんどわからなくなっていたことに驚いたということを書きたかったのだ。漢字も書けないし、英語も読めなくなっている。あまりにスカスカな頭の中を目の当たりにして、とても新鮮な気持ちになった。思えば、最近言葉が出てこないことが多くなった。この年で、と年上の人に笑われてしまうけれど、断片しか出てこないのである。人の名前を思い出すときでも、名字の中の一文字しか出てこなかったりするわけのである。改めて振り返ってみると、自分がどのような記憶の仕方をしているか、というのがわかって面白い気もするけれど、この忘却の速度に関しては笑えない。体を動かさなければ体力が落ちるように、頭も使ってなければ悪くなっていくのだ。いかに電子機器に依存しているかがよくわかる。
電子機器が悪いというつもりは毛頭ない。あくまでメディアの拡張に他ならなくて、例えて言うなら鉛筆みたいなものだ。自分の記憶の容量には限界があるから、それをPCやスマホに助けてもらっているに過ぎない。それはそれである種人間の発達の形だ。ただその着脱可能な外部機器に依存して、本体を疎かにしてしまうのは元も子もない。OSも今時どんどんとアップデートしているのだ。情報を消費するだけではおいて枯れてしまうよなあと思ったりするわけだ。

GW開始のお知らせ

GWと書くと即座にゴールデンウィークが想起されるのは素直にすごいなと思う。それだけ世間に定着しているということか。GWで表すほかの略語を考えてみてもさっぱり思いつかない。あまりにみんなが知っているからわざわざそういう表記をしないというのもあるだろう。
これに限らず大型連休となると、みんなが一斉に色めき立つ。やっぱり休みはうれしいだろうし、メディアのそうした戦略もあるだろうけれど、どこに行っても人が多くて疲れてしまいそうだ。別に言うほど人ごみは嫌いではないけれど、それにしたって、大渋滞や混雑具合を見ていると、みんな人ごみに行きたくて外に出かけているのか、と考えてしまうほどだ。確かに人がたくさんいるところに向かうとお祭り感があって楽しいのは事実である。閑散とした観光地に向かうと、休息としてはよいけれど、若干もの悲しさも覚えるものだ。その場所を堪能したかったり、のんびりと過ごしたいのであれば、時期をずらしていけばいいのだろうけれど、連休というのは活気を楽しんでいる側面もあるのだと思う。
僕も少し前までは、そういうのがあまり好きではなくて、わざわざ連休中にどこか行くとか馬鹿なんじゃないの、とか考えていたのだけれど、今ならその気持ちが何となくわからないでもない。人とずれてることに対して非日常を感じているのか、人と同じことをするのに非日常を感じるのか、という違いなのだろうと思う。そうした意味では大人になってきたということなのだろう。楽しむことに対して、とても素直になってきた。
とはいえ、今年はどこかに出かけるのかというとそういう予定もない。せいぜい混んでいる場所に物見遊山しに行く程度だろう。今の僕は休みなんていくらでもあるから、遊ばなければという切迫した感情はないからだと思う。とはいえ、外に遊びに行きたいという感覚はやっぱりあるから、人と同じことがしたいのだろうなあ。

久しぶりなので雑記

間が空いてしまうとどうも身構えてしまっていけない。なんとなく、久しぶりに友人に会う時の緊張感と似ているような感じがする。もう少し間が空いてしまえば、おのずと書きたくなるのだろうけれど、そこまで待っているのもなんとなく癪な話である。ここはなんでもいいから適当なことを書きなぐって、落ち込んだ気分を一掃したいものだ。
落ち込んだと言っても、そんなに難しい話ではなくて、単に周期の問題でしかないのである。大体、浮かれた後は緩やかに下っていく。特に最近は世間でいろいろあったようだから、なんとなく勝手に落ち込んでいた。別に周りの人は特に相変わらずという感じなのだけれど、テレビとか見ているとやっぱり大変そうで、こっちがのんびりとしているのが申し訳ない気持ちになってくる。こちらはこちらで普通に過ごすのがいいのはわかってはいるのだけれど、なんとなく動きづらい。そうしているうちに悶々として来てしまうもので、そういうときは体を動かすのが一番良いのだと切実に感じる。
前回の震災のときも同じような感じになったのは覚えていて、その時は地元が大変だったからボランティアをした。何か貢献できているという感覚はそうした申し訳なさをうまいこと解消してくれていたように思う。たぶん僕と似たような感覚の人は多くいて、当時はボランティアとか支援物資とかが大量にあったと思う。免罪符としてのそれらは当人には有用だけれど、時として邪魔になるのも事実で、そうした時に逆切れ的なことをされたのを覚えている。彼らにとって重要なのは免罪符。だから「弱っている人を助ける」という行為が必要なわけで、その人たちが大丈夫と言われることに対して、許せないということが往々にして起こる。多くの人は大丈夫なら良かったと言ってくれた一方で、そういう風に言う人もいたことには驚いた。
助けるとか手伝うなどの行為の中にあるエゴは出来る限り取り払わなければいけないと思っている。それは主体はあくまで他人にあるからだ。そこで自分の論理を押し出しすぎてしまうと、徹底的に破綻してしまう。常識というものはそこには存在せず、状況があるだけだ。自分が変質するきっかけには良いと思うけれど、自分の正義を押し付けたいのであれば、人を選んでする必要があるのではないか。どんなにその論理や常識に正当性があったところで、状況に見合ったものでなければ、間違いなく受け入れられないし、その人たちの価値観を尊重しなければ、そこにコミュニケーションは存在しない。他人の領域に踏み込むというのはそういうことなのだと思う。

言葉を失う周期

世の中の半分くらいの人に経験があるかもしれないと思っているのだけれど、唐突に何も言葉が出なくなる瞬間というのがある。人と実際に喋っている時はもちろんだけれど、こうして文章を書こうとするときもそうだ。単純に体内のエネルギー量の問題と言えばそうなのだが、頭の中には言葉以外と溢れていて、ごちゃごちゃとしている場合が多い。まとまっていないことをぐちゃぐちゃと吐き出すと意外とまとまるということもあるとはいえ、そういうときはわからないことがわからない状態になっていることが多いから、解決法はわかっていても安易に実行できない場合が多い。
こういう時は極度なネガティブ状態になっている可能性が高いと気付いたのは最近のことだ。大抵、なにがしか気まずい時というのはこちらが勝手にそう思っているだけの場合が多い。自分がやることなすこと全て負の方向に向かっていると思ってしまうから、改善策も失敗するのではないか、という発想になる。かくいう僕も若干体調が悪く、ナーバスになっている。生活の周期が乱れてしまうと、精神衛生上よくないのだろうなということも最近気が付いた。やはり健全な体に健全な魂は宿るものだ。
不思議なものこうやって、不安なことや気に病んでいることを書き出してしまうと、すこし体が軽くなったような気がしていて、不安というのは頭の中が整理されていない状態だというのを垣間見る。どんな目線で見ようが事実は変わらないわけで、それならばこうしてフラットな目線で見たほうが気持ち的にも楽になるのだろうと思う。
個人的な話ばかりでアレなのだが、季節の変わり目というのは体調を崩しがちなせいか、思考的にもナーバスになってきてしまう。運動しないとだめなのだなあ、なんて思うわけだ。

説教という同調圧力

どこかの本で「働くのは周りの人にきちんとしていると思わせるため」的なことが書いてあったけれど、まさしくその通りだなと言うのを実感する。人と会えばやれ働け、やれ親のすねをかじるな、などと説教をされる。その論理のある種の正当性にはこちらも気づいてはいるものの、一応こちらはこちらで成立しているのだから、と思わないでもない。
まあもう何度も書いている気がするけれど、人は自分が正しいと思うものを常識と考えてしまう節がある。もちろん経験からしか学べないのだからそれは仕方のないことだとは思うけれど、とはいえ自分の知らないものを排除しようとしてしまうのはあまり想像力が欠けているのでは、と思わないでもない。しかしこれは僕が今虐げられるような立場にいるからそう思うわけで、これが逆の立場になれば何のためらいもなく、彼らを踏みつぶすことだろう。数は正義とよく言ったものだが、自分が勝てると思った相手に対しては人間驚くほど残酷になれるものだ。自分が正道を歩いていると感じていればなおさらのことだ。
そして、その正しさは無意識のうちに周りの人に強要される。類は友を呼ぶというが、それは正義が共有されている人間の方が付き合いやすいということに他ならない。人間の軋轢というのは概してそれぞれの正義の違いでしかない。

以前、ある人を話した時に、「若いうちは自分のコピーを作りたがってしまうもの」という話を聞いたことがある。ものづくりの現場において教育というのは非常に難しくて、感性が違うの一言で片付いてしまいそうな諸々の中に何がしかの普遍的な論理を教え込んでいかなければならない。そうした個性と「基礎」の境目というのは非常に難しい。良かれと思ってしたことが相手の個性を失わせることになりうるからだ。だから個性を見極める懐の深さと、普遍性を教え込める強さの両立が求められるわけだが、それは若い人間には難しいとのことなのである。

こういう考え方に目を向けると、人の話を何でも聞いてしまいがちだが、最も伸び悩みやすいのは人の話をよく聞くいい子なのだそうだ。それも当たり前の話で、相反する正義を自分の中に多数抱えてしまえば、生きていく指針もぶれていく。成功する人はパワフルな人が多いというが、そうした活力というのは盲目的な自身の正義によるものだろう。多少辛くても、信じているものがあればできることは増えていく。近ごろの若者はやる気がない、と言われてしまうのはおそらくそれに関する時代背景の変化の問題で、ニヒリズムに満ちたバブル崩壊後を生きてきた世代には明確な正義を持つことは難しかったりする。違う価値観同士が対話をするためには互いに相手を理解するという意識が必要なのだが、一方だけそれを持っていた場合、説教という名の一方的な殲滅戦になっていく。弱者の懐の深さは弱点にしかなりえない。

そしてこの主張もある種の説教となることであろう。ただ一つ違うことは見たくなければ閉じることができるということだ。これが酒の席でのものだったらと思うと、目も当てられないことになるだろう。ただ発信することで自身の正義を確かめるという弱さはどの人にでも存在しているのだろう。