黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

夏が来る

唐突に褒められると言葉を失う。確基本的に褒められることに興味がないのか、自分の価値は自分自身が一番よく知っているという驕りなのか。はたまた自身の理想に見合わない言葉をもらったことに対する苛立ちなのか。実のところ、こんな気取った言い回しをする必要など全くなく、単なる戸惑いでしかないのだろうと思う。こうして褒められたことを喧伝しているのがその一番の証拠だ。本当はうれしくて仕方がないのだ。
文章を書くのが好きなのだと気付いたのはいつのことだっただろう。小学校の時の読書感想文を書いているときは苦痛で仕方がなかった。特に感想など持つべくもない、いかにも子供向けの本に対して、模範解答を切り貼りした挙句、語尾がすべて~~と感じた、と結んでいる自分の文章がいやだった。こんなものゴミみたいなものだと投げ捨てたかったが、夏休みの宿題だったから仕方なく提出した。担任が文章上手いね、と言っているのが不思議で仕方がなかった。
高校の頃は当時流行っていたwebサイトで毎日のように日記を書いていた。最初はちょっとした遊びのようなものだったが、頭の中でもやもやとしている何かが形になって整理されていくのに、ひどく快感を覚えた。当時の同級生もたくさん読んでくれていて、調子に乗った僕は自分の誕生日の日に1時間に一回日記を投稿するというバカなことをしていた。当然書き切れるわけもなく、雑に書きなぐった何かが一時間ごとに投稿されていたが、それでも楽しかった。たぶん10年ほど前のちょうど今頃のことだったと思う。
特にやりたいことも得意なこともなかった僕は周りの称賛の声を鵜呑みにして作家になるなんてことを言いだして、親や教師を困らせていた。親には当然のように怒られたが、面談をした国語の教師は優しく、お前ならいつかなれるよ、と言っていたのを覚えている。その教師も数年前に亡くなってしまった。全うな姿を見せられなかったのは今でも心残りだ。
結局当時書きかけた小説の山はパソコンが壊れるのと共に消失した。一つとして書き上げたものはなかった。
大学に入って、脚本を書く機会が何回かあった。その時はコンペみたいな形で持ち寄って決めた形だったが、当然のように他の人のものに決まった。こういう自身のナイーブな心情を語ったものなど、他人にとってどうでもいい話なのだから当然の話だ。それ以降、お話を作ることに関して興味が無くなった。結局僕が書いていたものは僕がなにがしかのしこりを消化するためだけに作られたということに気づいてしまったのだ。それ以降、今と同じように数か月に一回ブログにぽつぽつと更新するだけになった。ただそれでもなお綴り続けていた。
今月のあたま、とある出版社に面接に向かった。いくつかの問答があった後、終わり際に面接官が課題作文を見て、「文章面白かったです。それだけは伝えたくて」と言った。ありがとうございますという言葉しか出てこなかった。たぶんダメだろうなというのはその時の肌感覚でわかっていた。後日、正式に落選のメールが届いた。その前に受けたところでも似たようなことを言われて落ちていた。どういう感情を持てばいいのか、正直なところ分からなかった。
それ以降、何度も文章を書きかけたけれど、全然うまくかけなかった。頭の中できちんと整理されていたはずのものが、文字に起こすたびにぶれていく。ちょっとした誤差に気づくたびに書くのをやめた。そして数日後また新しいものを書き始める。それの繰り返しだった。全然楽しくない。なんでこんな文章しか書けないのだろう。思えば、先日褒められた文章だって、時間が足りなくて書きなぐったものだ。全然いいものなんかじゃない。僕がよくないと思ったものを褒められて、僕がいいと思ったものは誰も褒めてくれない。わかっている、わかっているのだ。そういうものなのだ。それに社交辞令として、言っておいただけかもしれないじゃないか。ただ理解はできても、どうしても納得はできなかった。ずっと心の中にもやもやした感情がくすぶっていた。完全なものを自分に掲示してあげたかった。そして適当に綴ったものを褒め叩いた人たちに完璧なものを見せつけたかった。
だけれど、気づいてしまった。たぶんそこが僕の果てなのだと。ありもしない完全を追い求めているだけなのだと。やればできる。もっとできる。そんな幻想に踊らされていただけなのだ。
だから僕は今、酒を飲みながら、この文章を書いている。素面ではこんなことなんて書けない。だってどうせまた完全を求めてしまうから。そして読んだ人は失笑するのだろう。だってこれは僕にとってはたぶんよいと感じられるものだから。
そしてまた夏がやってきて、また僕は一つ年を取る。これがいつまで続くのかはわからない。

下書きという名の残留思念

書きかけの文章が山のように放り捨てられている。ブログの記事もそうだし、小説もそうだ。ただ積み上げられた思念の山が僕の後ろにはそびえたっている。下書き欄には結論の直前で閉じられた文章ばかりだ。
あるとき、小説を書こうと思い立ったことがある。高校生の頃だっただろうか。一万字ほど書き上げた所で唐突に放り投げた。頭の中で描いた鮮明な景色が形にできないことに苛立ちを覚えたのだと思う。それ以降、僕は一日で書き上げられなかった文章は捨てることにしている。しかし、一日で書ける量など数限りがある。だから僕の書く文章は長くても2~3000字だ。それに一日で書き上げるものなどに深みはない。そうした中途半端さの中で文章を書き続け、手慰みとして扱ってきた。それが悪いことだとは思わない。娯楽などはしょせんそんなものだからだ。
大学に入ってから、とある友人が作品を途中で投げ出すことに対して、かわいそうだと言った。その感覚はいまでもわからないが、ずっと心に残っている。人目にさらされることで創作物は作品として消化していくのだろう。しかし、作り上げられたものが全て表に出ることが本当に正しいのだろうか。みな、生きていく中で人知れず努力や苦労をしている。日の目を見ない作品はそれのようなものなのではないか、と考えてしまうのだ。だからある意味ではこの文章は努力やなにやらのひけらかしみたいなものだ。みっともないことこの上ない。ただ、そうしたものも供養してあげてもいいのではないかと考えてしまった。
これから先、このスタイルを変えない以上は、それらが別の形で表出することはあっても、あらためて書き出されることはないだろう。適当なことばかり書いているくせに、と思うかもしれないが、真面目にやって、それがかなわかった時ほど、恥ずかしいしみっともないのだ。だから僕の下書きフォルダには夢半ばで敗れた恥ずかしい姿が並んでいるともいえるのかもしれない。

記録と記憶

とりあえず一段落したので久しぶりにキーボードに向かうことにした。最も良い意味ではないのだが。まあある程度のストレスからは解消されたわけで、そういう意味では素直に物事が書けてよかろうとの判断である。注目されていると思うと、かしこまって書けることも書けなくなってしまう。プレッシャーに弱いものだなあと我ながら笑えてくるものではあるのだが、あんまり建設的なことは書きたくないのだ。そういうことを書くといつも思考がワンパターンになってしまって面白くない。結論ありきで書いた文章は確かにさらっと読めてためになるかもしれないけれど、書いていて面白みがないし、何よりなんとなく薄っぺらい感じがしてしまう。もっとも薄っぺらいことが悪いことなのかはわからないわけだが。
少し前の記事で作文試験の話をしたけれど、あれの面倒な所は時間制限もさることながら、あとで自分の書いた文章を読み返せないことだ。試験だから当然なのかもしれないけれど、手元において後日改めて読みたくなる人はあまりいないのだろうか。普段こうして自分の好きな話題を好きなように書いている僕としては、課題を出されて何かを書いた時にどのようなものを書いたかというのは気になるものだ。他人は勝手に評価してくれるので、自身で評価をきちんとつけたくなるし、何よりこうして記すということは自分自身を記録しているということなのだ。それが残っているということは重要なことだとは思ったりする。なぜなら何かあるときは思い出に残っているわけで、何もないときにこうして何がしかの形を残しておかないと、ただただむなしくなってしまう。
感情や思考は時間に応じて変化していく。その変化を断片的にでも残していくことで自分自身の足場をしっかり踏み固めている。何も示せなければ何もかもがすぐに終わってしまう気がするのだ。

伝言ゲームによる情報の変質

東京オリンピックを開催しなくなる可能性があるらしい。都知事が変わるかもしれないらしい。なんだかいろいろ大変な世の中だ。昔からこんなにバタバタとしていたのだろうか。そういえば前の都知事もスキャンダルで辞めたのだっけ。ここ数年めっきりニュースを見ていなかったものだから、あまりの激動っぷりに驚いてしまう。なんにせよ、スキャンダラスな内容がネットのどこかでは常に騒がれている。情報過多ともいえる時代だからさもありなんという感じといえばそうなのだけれど、数年前に比べるとネットの力というのは随分強くなったものだなあとしみじみ感じる。
ネットが普及し始めたとき、マスメディアVSインターネットみたいな構図が考えられていて、今もそうした側面は存在するのだけれど、その二つの距離は格段に縮まった。youtubeの動画がゴールデンタイムに流れていたり、なんてことはもはや珍しくないし、テレビの内容がニュー速だけでなくネットニュースにも載っている。互いがそれぞれをソースにするという形になってきているのだ。ではマスメディアの力が衰えたかというとそういうわけでもなくて、やっぱりほとんどの家にテレビがあることを考えるとそっちの方が発信力は高いのかもしれないと思う。ただ情報の信憑性に関して考えると、そうでもないのかなと感じている。報道という点に関しては一日の長があるだろうけれど、それはあくまで事実をきちんと照らし出した場合だ。ワイドショー風に誰かが意見を話し出すと一気に胡散臭くなって、そのあたりのツイッターのアカウントと変わらなくなる。それに健康法などの科学的な番組に関しては昔から詐称が存在している上に、正しいとされているものも効果が正しいとされているものはそう多くはないだろう。別にテレビが悪いと言っているわけじゃなくて、情報というのは発信する側がコントロールしているものがほとんどだということだ。それはどんなメディアにおいても変わらない。
一般向けに簡略化した説明を嫌う人が少なからずいるが、それはおそらくその簡略化の過程で情報が変質してしまうことを嫌っているように思う。伝言ゲームをやってみればわかる話だが、人から人へ言葉が紡がれていくと気が付けば、全く別の意味にすり替わっている。情報化社会の恐ろしいところはそのあたりで、無数の発信源が存在し、交流しあうことで、一次情報からどんどんと離れていってしまうのだ。こうした状況の中でデマに触れることはもはや防げないと言える。
こうした中で、一つの情報源を信じるというのはとても危険なことだ。単なる噂話ならまだしも、自分の生命にかかわるような切実な情報に関してはきちんと調べたほうがよいだろう。そもそも物事は多角的な側面を持っている。一つの物事を二人が説明したとして、それぞれが全く別のことを言う可能性は高いのではないか。単純に考えればわかる話なのである。
確かに多すぎる情報は手に余るし、その確実性を調べる時間はもったいない。だからといって、自分の目に映ったもの、聞いたものをすべて正しいと思ってしまうから、テレビは悪になり、ネットも悪になるのだ。本来、テレビのほとんどは適当なものだった気がするし、ネットソースなんて言ったら笑われたのである。スキャンダルをバッシングして、こき下ろす意見を発信し、踏ん反りかえっている人のどれほどがその矜持を持っているのか。二次情報を扱うのであればきちんとしてほしいところだけれど、そうはいかないのだろうなあ。単なる井戸端会議だったものが、文字として発信され、世論とされていくことは果たしていいことなのか、悪いことなのか、考えてしまう。

文章力とはなんだろうか

この間久しぶりに作文とやらを書いた。作文とは読んで字のごとく、文章を作ることだから特に難しいことではないはずなのだが、言葉が出てこなくて驚いた。内容のない文章を書くのはいたって容易なことだが、筋道立てて物事を説明しようとすると急に難易度が上がる。ブログを書いていれば、文章力とやらが上がるというのは大間違いなことがよくわかる。自分のブログを改めて読み返してみると、全く持って内容がない。200字もあれば説明できることを1000字もかけて説明している。この手の技術は新書に良く使用されていて、A43~4枚で書き終わることを200ページ近くにまでするのだから、熟練の技である。内容を引き延ばすだけ伸ばして、1000字程度になると飽きてしまう僕としては見習いたいものである。
この手の薄く引き伸ばす技術というのはあらゆるところで応用されており、5分で終わる仕事に1時間かけたり、わざわざ果汁50%のジュースを作ったりと用途は様々なうえ、我々の人生も最近は長寿という名のもと、薄く細く引き伸ばされていると言えよう。当方、太く短く行きたいと思っていた時期があったものの、最近は少しは長生きしたいなどと戯言をのたまうようになっており、老害化が心配されている。
とまあ、このように必要のない話題を執拗に書きたがると、だんだんと文章が肥大化してくるわけで、これは割とよくあることなのだけど、書いているうちに何を書きたかったのかわからなくなってしまうのである。今回に関してはきちんと覚えているわけだが、この手の文章にありがちなのが、論旨が気が付かないうちにすり替わっているということだ。これを切迫した会話で行うと、誤魔化すな、などと罵詈雑言を浴びせられることが多いの要注意である。酔っ払いにありがちという噂もよく聞く。ただ、最初の論旨に固執し過ぎてしまうと会話はあまり続かないわけで、そういう意味では話題の転換のうまさが会話のうまさに直結していると言える。
ところが、会話のうまさは文章力には直結しないのである。文章力には定義が様々あると思うが、基本的には論理がしっかりと帰結しているというものが主だろう。物語でもよく伏線が...などといわれるが、いわゆるそれである。要するに書くまでの準備が必要不可欠なわけで、その段階でしっかりと土台を組んでいれば、多少拙い文章でも文章力があるように見えるのだ。つまり表現力と文章力とは別物で、読みやすい文章というのは基本的に論理の連結が把握しやすいものだと感じている。
そう考えてみると、僕の文章はレトリックが多くて、論理の連結がぐちゃぐちゃなのがわが目から見て日の目を見るより明らかで、そうした意味では作文が苦手だというのはあながちわからないでもないなあと感じるわけである。文章力とか言って、書いてりゃつくものじゃないんですわなあ。

健康と健全

人は不健康になった時に健康の重要性に気づくものだとはよく言う。風邪を引けば、ちゃんと体調管理をしようと多くの人が思うことだろう。しかし、またいつの日か同じことを繰り返す。継続すること、記憶し続けることはとてもつらいことだ。若いうちは健康であることが当たり前である以上、健康を意識することは不健康であることの証なのだということをみな無意識的に気づいているのかもしれない。
昨今の健康ブームというのはそれを如実に示していて、それは多くの人が健康でない状態にあるか、高齢化が進んでいることを表しているともいえる。年を取れば、自ずと体力が落ち、体のどこかしらに不調を覚えるようになる。そうした時に生じるのは一過性の痛みのみならず、自分の体への落胆もあるだろう。そして、それは若さへの渇望にも似ていて、そこから生じる日常生活への不安は継続性を伴ったものとなる。多くの人を行動に走らせるのは願望のような前向きな考えよりも不安のような負の感情だ。わずかな痛みと未来への不安を伴った体は健康への強い執念に似た何かを生み出すだろう。若い人間よりも年老いた人間が生への執着を示すのは体の不調があるからのようにも思える。
今ではだいぶ無くなったが、僕自身も10代の頃は健康でないことに対する憧れのようなものはあった。暗いところでわざと本を読んだり、夜遅くまで起きていたり。それは好奇心に似た何かのようにも思えるし、単なる反発のようにも思えるが、何にせよ未知の何かへ変化することを望んでいたのだと今となっては思いたいものだ。とはいえ、そうした健康に対する何かを鼻白んでみていたのも事実だ。今となっては失笑物だが、若さゆえの傲慢ともいえるだろう。いわゆる中二病というやつだ。
しかし、どうしてそんなに健全であることに対してアレルギー反応を起こしてしまうのだろう。やっぱり国民性的な何かなのだろうか、たとえば判官贔屓的な(ちなみに「ほうがんびいき」と読むことを今知った。テキスト変換であらゆる間違いに気づけるこの時代というのは本当に便利である)。正義のヒーローを望むのはディスプレイの向こう側のみである。いやこのご時世ディスプレイの向こう側ですら、嫌がられるのかもしれないが。
これは思うに多くの人が自身の悪性に対して意識過剰になっているからなのではないか。人によって正しさというのは当然異なるわけだが、そうした中でも常識の名の元、ある程度の規律が求められる。これは各共同体によって大きく異なるわけだが、それがある程度のラインを超えるとある種の悪性に対して極度に敏感になってしまうのだ。これは他者への非難と共に自身のそうした側面を自覚させる作用も当然生じさせる。自身の悪性に気づいてしまえば、言われもなき正義というのは疎ましいものだ。そんなものは信じられない、あんないいことしてるけど、どこかに悪いところがあるはずだ、となる。良くも悪くも平等意識が芽生えてきたともいえるのだろう。
しかし、病気のときは健康になろうと試みるのに、自分が悪いと気付いた時はそれを治すのではなく周りも悪いはずだ、となってしまうのは面白い。精神的なものは性質だとあきらめてしまうのだろうか。それか単にメリットを感じられないからなのだろうか。生きるために良くあろうとするというのは動物の生存本能として当たり前のわけだが、逆に考えればそうした道徳や素晴らしい生き方というのは動物が本来持ちえないものだと言えるのかもしれない。まあ当たり前といえば当たり前の話なんだけど。

頭は使わないとどんどんとダメになるね

思い返せば、ここ数年勉強をしていない。そう書くといささか語弊があるけれど、いわゆる受験勉強なものからは遠ざかっている。大学が単科大学だったこともあり、一般知識に関しては大学受験以来全くと言っていいほど疎かだ。これは僕だけでなく、多くの大学生もそうなのかもしれない。より専門的な知識を得るにあたって、それ以外の部分というのは自ずと遠ざかっていく。大学は研究機関であって、教育機関ではないわけで、自分の興味からそれたものに対して、アプローチをしてくれることはそうそうない。受験勉強をあまりよくいう人は聞かないけれど、そうした意味では非常に有用なものだ。基礎的な知識というのはあらゆる思考のベースとなるし、趣味としての教養ともなる。高校時代に死ぬほど成績が悪かった僕が言うのもアレだけれど、興味がないものにも最低限の知識を持っているということは大事なのだと思う。
うだうだと書いてみたものの、別に勉強しろ、というわけでは全くなくて、どちらかというと、久しぶりに参考書を開いたら、ほとんどわからなくなっていたことに驚いたということを書きたかったのだ。漢字も書けないし、英語も読めなくなっている。あまりにスカスカな頭の中を目の当たりにして、とても新鮮な気持ちになった。思えば、最近言葉が出てこないことが多くなった。この年で、と年上の人に笑われてしまうけれど、断片しか出てこないのである。人の名前を思い出すときでも、名字の中の一文字しか出てこなかったりするわけのである。改めて振り返ってみると、自分がどのような記憶の仕方をしているか、というのがわかって面白い気もするけれど、この忘却の速度に関しては笑えない。体を動かさなければ体力が落ちるように、頭も使ってなければ悪くなっていくのだ。いかに電子機器に依存しているかがよくわかる。
電子機器が悪いというつもりは毛頭ない。あくまでメディアの拡張に他ならなくて、例えて言うなら鉛筆みたいなものだ。自分の記憶の容量には限界があるから、それをPCやスマホに助けてもらっているに過ぎない。それはそれである種人間の発達の形だ。ただその着脱可能な外部機器に依存して、本体を疎かにしてしまうのは元も子もない。OSも今時どんどんとアップデートしているのだ。情報を消費するだけではおいて枯れてしまうよなあと思ったりするわけだ。