黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

自己PRが苦手

さて7月である。1年も半分が終わった。最近如実にパーソナルな話題が増えているが、いい話が全く出てこない。基本的にはネガティブなことばかりである。元来そういう性格という可能性もあるが、酔っぱらうと自慢話が増えることを考えると、歪んだ自尊心を持っている可能性が非常に高い。こうした人間は相手にすると厄介なので、実生活で出会ってしまった際は深堀をしないほうがよろしいだろう。のっけから、自身のネガティブキャンペーンである。
まあこういう性格なので、自分自身のPRをするのがえらく苦手だ。いやできることはできるのだが、口から放たれる言葉を聞いているうちにどんどんと気分が悪くなる。履歴書等々も同様である。これはおそらく自身の長所と短所をごっちゃにしてしまった結果の違和感である。人間には長所と短所が必ずあるわけだが、それらが完全に区別されることはなく、基本的には総合力という観点で測られることが多い。となると長所を伸ばすよりも短所を減らす方が効率的に思えるわけで、そうなると短所に目が行きがちなのである。そしてさらに出る杭は打たれがちだ。そう考えていくと、我々のほとんどは長所を示すことがあまり得意ではないのではないかという推論が生まれる。

しかし、それに甘んじるわけにはいかないのだ。時は資本主義の個人競争社会である。隙あらば、他者との比較が待っているわけで、生きていくためには他社より優れていることを示さなければならない。論より証拠と結果を示せる人間ならいざ知らず、そうではない人間はありもしない誇張を繰り返して自分を大きく見せなければいけない。
長所を示すのが苦手な人間はこういう考えになりがちなのである。実際PRというのはそういった側面もあるが、それは上級者のやることである。僕のような初心者には到底出来もしない。ありもしない見栄を張って生きることができるのは肝っ玉が据わった人間だけなのである。現実に起こったことの中から少しでもいいことを探していくしかないわけだ。要は自己分析というやつである。段々と就活セミナー感が出てきたが、気にしないでおく。
ではためしに僕のいいところを探してみるとしよう。


まず文章が書けるということである。これは多くの人間がすでに持っている能力なのに加えて、現在はネット文化ということもあり、文章能力が高い人が非常に多いだろう。特筆すべきことでもない。

次に、ブログがそこそこ続いていることだ。しかし、これも毎日更新出来る人が多く存在しているうえ、僕の場合は早々と不定期更新になってしまったのでダメだ。

他は...大学を4年で卒業したこととかしか思いつかない(しかもギリギリ)。友達が少しならいることも加えてもいいかもしれない。そんなものだ。


こう考えてみると、もろもろの原因がはっきりとしてくる。要は極端なのである。基本的には長所のボーダーライン設定が高いうえに、次いで思いつくものに関しては、極端に設定が低い。理想に届かないものに対してはすべて卑屈になってしまうのである。自虐癖と言えばいいだろうか。ボーダーラインの設定ができないゆえに、自己評価が極端に低くなってしまうのだ。理想が高すぎるともいえる。SNSを見ていると、こういう人は意外と散見されるが、これは情報が簡単に手に入るのに加えて、自分で恣意的にそういう情報をセレクトしてしまうのもあるだろう。ちなみにこの逆は少ない成功体験に縛られてしまうことで、自己評価が過剰に高くなってしまうことである。まあどちらも生きづらいことには変わりないから表裏一体と言えるだろうけれど。

まあこうしていろいろと書いてみると、僕にも多少の分析能力はあるのかもしれない。しかし、絶対自分をほめようとするときに、「多少は」とか「それなりに」とかつけるのはどうにかならないのか、と我ながら思ってしまう。わかっていても性癖というのはそうそう変わるもんじゃないね。この面倒臭さから早く脱却したいものだけれど。

久しぶりに一日何もできなかった。この体の重さは退職直前のときではないにせよ、働いていた時の休日を思い出すようだ。疲れるようなことは特に何もしてないつもりだが、体というのは正直なものだ。気づかないところで何かしらあったのだろうと思う。
どの人間もそうなのかはわからないが、気持ちが落ちると体が急に重たくなる。落ちるというか、張っていた緊張が解ける瞬間と言ってもいいかもしれない。前職で体を壊した時もそうだった。一度緩んだ糸は戻らないというが、それを張ろうとするとぷつんと切れる。スポーツなんかを見ていてもそれはよくあることだ。だからこそ安定した成績を残し続ける人間が一流と呼ばれるのである。気を抜きすぎず、張らせすぎず、のバランスを取り続けることが長期戦の中では重要になってくる。以前もよく言っていたことだが、規則正しい生活を送ることが、そうした安定感を生み出すと考えている。メリハリという言葉があるが、それはできる限り少なくするのである。
しかしそうした行為というのはとても難しい。人間というのは欲にまみれた生き物である。隙さえあれば、何かを欲し続けてしまう。それは向上心につながる側面もあるが、堕落へと突き落すこともある。成功も、失敗も、基本的に人間のあらゆる行動は欲望に基づいたものだ。食べる、眠る、子孫を作る、生存に必要なためのものは全て体に必要だと刷り込まれている。ともすれば、それに基づいた欲望の数々も人間を動かすためには必要なことなのだろう。七つの大罪と呼ばれて、人々から唾棄されるべきものだと言われてはいても、それが人間を人間たらしめているものなのだ。だから欲望を完全に捨て去ってしまうことは人間であることを諦めるのと似たようなものだ。嫉妬も高慢も憤怒も怠惰も、人間らしさの表れでしかない。人々の欲望が露わになり、またそれがさらに人々を煽るこの現代こそ、もしかしたら人間がもっとも人間らしい時代なのかもしれないとすら思う。変化の時代とはよく言ったもので、自身の感情の変化にも対応していかなければならない。
欲望が生まれるのはとても自然なことだ。しかしそれが何かに煽られたものではないか、ということはきちんと見極めなければいけない。欲望にまみれた生活の中にあるからこそ、自身の中で取捨選択すること。整理整頓は何事においても基本である。さて、僕も掃除でもしようかと思う。そうすれば少しは気が晴れるか。

ブログ名変更しました

とりあえずふと思いついたので、ブログのタイトルを付けることにしました。若干不貞腐れた勢いで決めた感のある題名ですが、意外と堂にはまっている気もします。何ごとも勢いが大事だと聞きますし、思い立ったが吉日です。そういえば、某社の作文で自身の黒歴史を捨ててしまうのはあまりにもったいない、などということを書いた気がします。自分自身からするとあまりに痛々しくて、もだえ苦しむようなものが大半でしょうが、意外と発見が多いのかもしれません。むしろそうであってほしいななどと思ったりもします。
僕自身の黒歴史もネットの海の中に数多く残っているように思います。そして誰かの記憶の中にも残っているのでしょう。
そしてまたこうして新たな黒歴史を生み出しています。ただ物事というのはある側面から見ると別の側面は切り捨てたいものでしかないのだと思ったりもします。白か黒かを決めるのはその時の心境いかんということでしょう。
あらためてこうしてタイトルを見直してみると痛々しいことこの上ないですが、今後共々よろしくお願いいたします。

夏が来る

唐突に褒められると言葉を失う。確基本的に褒められることに興味がないのか、自分の価値は自分自身が一番よく知っているという驕りなのか。はたまた自身の理想に見合わない言葉をもらったことに対する苛立ちなのか。実のところ、こんな気取った言い回しをする必要など全くなく、単なる戸惑いでしかないのだろうと思う。こうして褒められたことを喧伝しているのがその一番の証拠だ。本当はうれしくて仕方がないのだ。
文章を書くのが好きなのだと気付いたのはいつのことだっただろう。小学校の時の読書感想文を書いているときは苦痛で仕方がなかった。特に感想など持つべくもない、いかにも子供向けの本に対して、模範解答を切り貼りした挙句、語尾がすべて~~と感じた、と結んでいる自分の文章がいやだった。こんなものゴミみたいなものだと投げ捨てたかったが、夏休みの宿題だったから仕方なく提出した。担任が文章上手いね、と言っているのが不思議で仕方がなかった。
高校の頃は当時流行っていたwebサイトで毎日のように日記を書いていた。最初はちょっとした遊びのようなものだったが、頭の中でもやもやとしている何かが形になって整理されていくのに、ひどく快感を覚えた。当時の同級生もたくさん読んでくれていて、調子に乗った僕は自分の誕生日の日に1時間に一回日記を投稿するというバカなことをしていた。当然書き切れるわけもなく、雑に書きなぐった何かが一時間ごとに投稿されていたが、それでも楽しかった。たぶん10年ほど前のちょうど今頃のことだったと思う。
特にやりたいことも得意なこともなかった僕は周りの称賛の声を鵜呑みにして作家になるなんてことを言いだして、親や教師を困らせていた。親には当然のように怒られたが、面談をした国語の教師は優しく、お前ならいつかなれるよ、と言っていたのを覚えている。その教師も数年前に亡くなってしまった。全うな姿を見せられなかったのは今でも心残りだ。
結局当時書きかけた小説の山はパソコンが壊れるのと共に消失した。一つとして書き上げたものはなかった。
大学に入って、脚本を書く機会が何回かあった。その時はコンペみたいな形で持ち寄って決めた形だったが、当然のように他の人のものに決まった。こういう自身のナイーブな心情を語ったものなど、他人にとってどうでもいい話なのだから当然の話だ。それ以降、お話を作ることに関して興味が無くなった。結局僕が書いていたものは僕がなにがしかのしこりを消化するためだけに作られたということに気づいてしまったのだ。それ以降、今と同じように数か月に一回ブログにぽつぽつと更新するだけになった。ただそれでもなお綴り続けていた。
今月のあたま、とある出版社に面接に向かった。いくつかの問答があった後、終わり際に面接官が課題作文を見て、「文章面白かったです。それだけは伝えたくて」と言った。ありがとうございますという言葉しか出てこなかった。たぶんダメだろうなというのはその時の肌感覚でわかっていた。後日、正式に落選のメールが届いた。その前に受けたところでも似たようなことを言われて落ちていた。どういう感情を持てばいいのか、正直なところ分からなかった。
それ以降、何度も文章を書きかけたけれど、全然うまくかけなかった。頭の中できちんと整理されていたはずのものが、文字に起こすたびにぶれていく。ちょっとした誤差に気づくたびに書くのをやめた。そして数日後また新しいものを書き始める。それの繰り返しだった。全然楽しくない。なんでこんな文章しか書けないのだろう。思えば、先日褒められた文章だって、時間が足りなくて書きなぐったものだ。全然いいものなんかじゃない。僕がよくないと思ったものを褒められて、僕がいいと思ったものは誰も褒めてくれない。わかっている、わかっているのだ。そういうものなのだ。それに社交辞令として、言っておいただけかもしれないじゃないか。ただ理解はできても、どうしても納得はできなかった。ずっと心の中にもやもやした感情がくすぶっていた。完全なものを自分に掲示してあげたかった。そして適当に綴ったものを褒め叩いた人たちに完璧なものを見せつけたかった。
だけれど、気づいてしまった。たぶんそこが僕の果てなのだと。ありもしない完全を追い求めているだけなのだと。やればできる。もっとできる。そんな幻想に踊らされていただけなのだ。
だから僕は今、酒を飲みながら、この文章を書いている。素面ではこんなことなんて書けない。だってどうせまた完全を求めてしまうから。そして読んだ人は失笑するのだろう。だってこれは僕にとってはたぶんよいと感じられるものだから。
そしてまた夏がやってきて、また僕は一つ年を取る。これがいつまで続くのかはわからない。

下書きという名の残留思念

書きかけの文章が山のように放り捨てられている。ブログの記事もそうだし、小説もそうだ。ただ積み上げられた思念の山が僕の後ろにはそびえたっている。下書き欄には結論の直前で閉じられた文章ばかりだ。
あるとき、小説を書こうと思い立ったことがある。高校生の頃だっただろうか。一万字ほど書き上げた所で唐突に放り投げた。頭の中で描いた鮮明な景色が形にできないことに苛立ちを覚えたのだと思う。それ以降、僕は一日で書き上げられなかった文章は捨てることにしている。しかし、一日で書ける量など数限りがある。だから僕の書く文章は長くても2~3000字だ。それに一日で書き上げるものなどに深みはない。そうした中途半端さの中で文章を書き続け、手慰みとして扱ってきた。それが悪いことだとは思わない。娯楽などはしょせんそんなものだからだ。
大学に入ってから、とある友人が作品を途中で投げ出すことに対して、かわいそうだと言った。その感覚はいまでもわからないが、ずっと心に残っている。人目にさらされることで創作物は作品として消化していくのだろう。しかし、作り上げられたものが全て表に出ることが本当に正しいのだろうか。みな、生きていく中で人知れず努力や苦労をしている。日の目を見ない作品はそれのようなものなのではないか、と考えてしまうのだ。だからある意味ではこの文章は努力やなにやらのひけらかしみたいなものだ。みっともないことこの上ない。ただ、そうしたものも供養してあげてもいいのではないかと考えてしまった。
これから先、このスタイルを変えない以上は、それらが別の形で表出することはあっても、あらためて書き出されることはないだろう。適当なことばかり書いているくせに、と思うかもしれないが、真面目にやって、それがかなわかった時ほど、恥ずかしいしみっともないのだ。だから僕の下書きフォルダには夢半ばで敗れた恥ずかしい姿が並んでいるともいえるのかもしれない。

記録と記憶

とりあえず一段落したので久しぶりにキーボードに向かうことにした。最も良い意味ではないのだが。まあある程度のストレスからは解消されたわけで、そういう意味では素直に物事が書けてよかろうとの判断である。注目されていると思うと、かしこまって書けることも書けなくなってしまう。プレッシャーに弱いものだなあと我ながら笑えてくるものではあるのだが、あんまり建設的なことは書きたくないのだ。そういうことを書くといつも思考がワンパターンになってしまって面白くない。結論ありきで書いた文章は確かにさらっと読めてためになるかもしれないけれど、書いていて面白みがないし、何よりなんとなく薄っぺらい感じがしてしまう。もっとも薄っぺらいことが悪いことなのかはわからないわけだが。
少し前の記事で作文試験の話をしたけれど、あれの面倒な所は時間制限もさることながら、あとで自分の書いた文章を読み返せないことだ。試験だから当然なのかもしれないけれど、手元において後日改めて読みたくなる人はあまりいないのだろうか。普段こうして自分の好きな話題を好きなように書いている僕としては、課題を出されて何かを書いた時にどのようなものを書いたかというのは気になるものだ。他人は勝手に評価してくれるので、自身で評価をきちんとつけたくなるし、何よりこうして記すということは自分自身を記録しているということなのだ。それが残っているということは重要なことだとは思ったりする。なぜなら何かあるときは思い出に残っているわけで、何もないときにこうして何がしかの形を残しておかないと、ただただむなしくなってしまう。
感情や思考は時間に応じて変化していく。その変化を断片的にでも残していくことで自分自身の足場をしっかり踏み固めている。何も示せなければ何もかもがすぐに終わってしまう気がするのだ。

伝言ゲームによる情報の変質

東京オリンピックを開催しなくなる可能性があるらしい。都知事が変わるかもしれないらしい。なんだかいろいろ大変な世の中だ。昔からこんなにバタバタとしていたのだろうか。そういえば前の都知事もスキャンダルで辞めたのだっけ。ここ数年めっきりニュースを見ていなかったものだから、あまりの激動っぷりに驚いてしまう。なんにせよ、スキャンダラスな内容がネットのどこかでは常に騒がれている。情報過多ともいえる時代だからさもありなんという感じといえばそうなのだけれど、数年前に比べるとネットの力というのは随分強くなったものだなあとしみじみ感じる。
ネットが普及し始めたとき、マスメディアVSインターネットみたいな構図が考えられていて、今もそうした側面は存在するのだけれど、その二つの距離は格段に縮まった。youtubeの動画がゴールデンタイムに流れていたり、なんてことはもはや珍しくないし、テレビの内容がニュー速だけでなくネットニュースにも載っている。互いがそれぞれをソースにするという形になってきているのだ。ではマスメディアの力が衰えたかというとそういうわけでもなくて、やっぱりほとんどの家にテレビがあることを考えるとそっちの方が発信力は高いのかもしれないと思う。ただ情報の信憑性に関して考えると、そうでもないのかなと感じている。報道という点に関しては一日の長があるだろうけれど、それはあくまで事実をきちんと照らし出した場合だ。ワイドショー風に誰かが意見を話し出すと一気に胡散臭くなって、そのあたりのツイッターのアカウントと変わらなくなる。それに健康法などの科学的な番組に関しては昔から詐称が存在している上に、正しいとされているものも効果が正しいとされているものはそう多くはないだろう。別にテレビが悪いと言っているわけじゃなくて、情報というのは発信する側がコントロールしているものがほとんどだということだ。それはどんなメディアにおいても変わらない。
一般向けに簡略化した説明を嫌う人が少なからずいるが、それはおそらくその簡略化の過程で情報が変質してしまうことを嫌っているように思う。伝言ゲームをやってみればわかる話だが、人から人へ言葉が紡がれていくと気が付けば、全く別の意味にすり替わっている。情報化社会の恐ろしいところはそのあたりで、無数の発信源が存在し、交流しあうことで、一次情報からどんどんと離れていってしまうのだ。こうした状況の中でデマに触れることはもはや防げないと言える。
こうした中で、一つの情報源を信じるというのはとても危険なことだ。単なる噂話ならまだしも、自分の生命にかかわるような切実な情報に関してはきちんと調べたほうがよいだろう。そもそも物事は多角的な側面を持っている。一つの物事を二人が説明したとして、それぞれが全く別のことを言う可能性は高いのではないか。単純に考えればわかる話なのである。
確かに多すぎる情報は手に余るし、その確実性を調べる時間はもったいない。だからといって、自分の目に映ったもの、聞いたものをすべて正しいと思ってしまうから、テレビは悪になり、ネットも悪になるのだ。本来、テレビのほとんどは適当なものだった気がするし、ネットソースなんて言ったら笑われたのである。スキャンダルをバッシングして、こき下ろす意見を発信し、踏ん反りかえっている人のどれほどがその矜持を持っているのか。二次情報を扱うのであればきちんとしてほしいところだけれど、そうはいかないのだろうなあ。単なる井戸端会議だったものが、文字として発信され、世論とされていくことは果たしていいことなのか、悪いことなのか、考えてしまう。