黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

僕とヤツらの話

昔から人の名前を覚えることが苦手だ。
10代の頃からそうだから、今となってはさもありなんという感じだ。
個体識別能力があまり高くないのだろう、と思う。
大体、知らない人と会うと誰かに似てるな、と毎回感じるわけだ。

じゃあどういう風に人を把握しているのかというと、
その人の持つ属性だ。
どこの会社の人とか、どこの学校の人とか、まあそんな感じ。
結構仲良く話していても、名前が出てこなくて、
「あの、あそこの会社のあそこのポジションの人...えーと」
となってしまう。
まあ名前というのはそれ自体は意味を持たないから、
記憶として結び付けづらいという性質もあるのだろうけれど。

そういう風な認識をしていると、段々と人のカテゴリ分けがされていく。
さっきみたいな、属性的な話もそうだけど、
何となく顔とか雰囲気とかを見て、たぶんこんな感じの性格なんだろうな、
などという分類もされるわけだ。
そうすると、属性として「~~の人はこういう性格の人」という
カテゴリ分けが何となく終了するわけだ。
まあ俗にいう一般化というやつだろうか。
なぜこういうことを行うかというと、
おそらく人間の本能的な何かで、
教訓とか対策とかを得やすくしているのではないかと思う。



そこまではまあ良いのだけれど、
困ったことにこのカテゴリ分けというものにどんどんと縛られてしまう。
本来、各個があっての集団なのだが、
そのうちに集団の中のサンプルにすぎなくなってしまって、
個体が認識できなくなってしまうのだ。

属性だけを持っている集団というのは恐ろしいものである。
本来物事というのは多面的なものなのであるけれど、
なんせ属性というのは単一の情報なわけだから、短絡的に判断してしまいやすい。
しかも一対多数、それも数がわからない得体のしれないもの、なのだから、
攻撃的になりやすいのだ。



僕も10代の頃は本当に攻撃的で、常に何かと闘っていたように思う。
今にして思えば、きっとその何かというのはそういった集団なわけで、
端的に言えば、「周り=僕を貶めるやつ」ぐらいの認識だったのかもしれない。

おそらく攻撃性に拍車をかけたのが、このインターネットというもので、
画面越しに見えるたくさんの、それでいて整理されている情報は
「僕とヤツら」の壁を明確にしていて、まるで、自分以外の「ヤツら」が
ひとつの統合された意識みたいに感じられたのだと思う。
90年代初頭の「セカイ系」みたいな感じといえばいいのだろうか。

まあ今となっては、そういうことも特になく、
ただただ平穏無事に暮らしているわけではあるのだけれど、
Twitterなんかをやっていると、
ぽろっと「ヤツら」を非難するような言葉が出て来てしまうことがある。
個人を非難するのは骨が折れるけれど、
「ヤツら」は実際には形を持っていないものだから、
サンドバッグみたいなものだ。
悪態に悪態を重ねたあとに、ふとちょっとした寒々しさを覚えるわけだ。

僕にとっての「ヤツら」と
それを見ている人たちの「ヤツら」は
もしかして違うのではないか、と。

なんといえばいいのだろうか、覆面かぶっている人をぼこぼこにして、
マスクを剥いだら知り合いだった、みたいな感じだろうか。
そう感じることがままある。実際にどうだったのかは知らないけれど。

まあ「ヤツら」は機嫌がいいときは
仲間にいれて、グルーブ感とかいうやつを感じさせてくれるし、
やつあたりも優しく受け入れてくれたりして、
本当に都合がいいものなのだけれど、あんまり甘えすぎてると、
すぐに機嫌が悪くなってくれるから本当に厄介だよねと思ったりもする。

「僕ら」になったことがほとんどないのは
救いなのか、そうではないのか、あまりわからない。