黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

海の中で溺れている

この間、知り合いと話していたら、ブログの話になった。
その人はブログとかができる前のテキストサイト全盛の時代から、
ネットにいた人で、ちらほらそういうこともしていたという。
巡回していたニュースサイトなんかも、
ちょっとだけかぶっていたりして、仕事中ながら大いに話は盛り上がった。

そんな中、
「ブログって気を抜くとただの日記になっちゃうんだよね」
と彼がぽつりと言った。
こうして日記帳をさらしている身からすると、耳が痛い話であるが、
確かに今の多くのブログはその類のものである。
しかし、改めて当時を振り返ってみると、
webに何かを書いて載せることには大きな壁があったように思う。



それは思春期特有の何かというよりも、
本名ではないにしろ、名前を持って、
形に残るものを人様の目に見える所にさらすのだから、
何かしら役に立つものでなければいけないという強迫観念だった。
当時mixiが流行ったのもそういう側面が少なからずあったように感じていて、
文章を使って発信したい。けれど、人様の前に素っ裸でさらされるのは嫌だ、
といういわば生温い感覚がちょうどよくフィットしたのだと思う。
当時はそういったインナーツールが流行っていたような覚えがある。

そういう流れが若干変わってきたのが、twitterの普及だった。
初めは自分のサイトを持つようなネットギークたちが細々とやっていたのが、
次第にそのユーザーに浸透していく。
お手軽に自己発信できてかつ、一方的なコミュニケーションを取れるこのツール
僕のような多くの自意識過剰なROM専にとっては画期的なツールだったように思う。
このあたりから、ネットに対する意識が若干変わっていたのは薄々感じていて、
これだけ情報があふれているのだから、自分のことなどすぐに忘れるだろう、などという
安易な考えに陥っていって、簡単に言葉を書き捨てるようになった。
何せ、間違ったら消せばいいのである。

似たような考えの人は少なからずいたらしく、その中には炎上してしまう人もいた。
僕が幸運にもそうならなかったのは、ネットを始めた初期に感じていた怖さが
心のどこかに残っていたからだろう。

しかしそうした恐怖心がネットの中に埋もれる原因だったのはよくわかる。
当たり障りのない、ふわっとしたことしかいわないからだ。
この断片化された情報の網の中では、特定のキーワードが重要となる。
そうしたキーワードをちりばめれば、人の目には止まりやすくなるのだ。
だからこそ、あえて具体的な名前を出さず、
それでいてパーソナルな話題を出すことを心がけた。
見てもらいたいけれど、注目はしてほしくない。
そんな面倒臭い自意識が、ブログをただの日記にさせていた。
顔のない「誰か」に見ていてほしいというその行為は、
瓶に手紙を入れて海に流す行為と似ていて、ただただ無意味なものだ。

何かを発信するというのは、誰かに考えを伝えようとすることである。
だとすれば、それが届くように最大の努力を払うべきなのだ。
おそらく冒頭の彼の言葉はそういった意味なのだろうと思う。