黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

待つこと、待たされること

「待つ」という言葉が好きだ。
それはひとりでは成立しない。「何か」を待っていなくてはならない。
他者がいなくては成立しない概念だ。
しかしそれでいて、凛としたような印象を感じさせる。

「待つ」ことと「待たされる」ことは当然ちがう。
能動と受動だ。
だけれど、ほとんどの場合、「待つ」ことは受け身になってしまう。
こちらから、主体的に他人を待つことなんてほとんどないからだ。
誰かが「待っている」という時は「待たされている」と
言い直す方が正しい場合が圧倒的に多い。
だから「待つ」ということは本来とても難しいことなのだ。
他者との関係性の中で、押し付けがましさもなく、被害者意識も持たない。
あくまで主体的に、来るか来ないかわからないものを待ち続ける。
滑稽だという人もいるだろうけれど、
僕はその断固とした「静」に魅力を感じる。

日本語というのは存外難しくて、気が付くと、受身形になっている、
というのを知人に聞いたこと*1がある。
言葉尻を捉えて、揚げ足を取っているように思えるけれど、
実はちょっとしたその言葉遣いが被害者意識に結びついているのだと思う。
何かをするという能動的な行為までもが、
「やらされた」と言い表すことができてしまうのである。
ともすれば、あらゆる行為は受身形で示すことができる、すなわち
あらゆる行為を誰かのせいにできるということなのだ。

「待つ」という行為は他人が主体と考えることができる。
だから、相手に対して不愉快な気持ちを持つことも多いだろう。
しかし、それは自分の意志で待っているのである。
別に待たないという選択肢は常に持っているのだ。
その選択肢を見なかったことにするのは他人のせいにしてしまうのが楽だからだろう。
待たなくていいと考えれば、腹も立たなくなっているものだ。

多くの人間と接していく中で、
能動的にものごとを進めるのはとても難しいことだ。
いつだって責任を押し付けあいながら、生きていかなければならない。
いいわけではなく、受身形になってしまうことも多いだろう。
ただ、そうした中で少しでも能動的になれれば、
気持ちの持ちようも変わってくるんじゃないかな、と思ったりする。

いつも待ち合わせに遅れてくる友人がいるならば、
怒るのではなくて、たまには待たないこともしてみれば、と思う。
そうすれば、「待つ」ことも意識的にできるかもしれないよ。