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黒歴史現在完了進行中(仮)

やることなすこと黒歴史

へびのあし

まあなんというか。
本当は別の記事を作っていたのだけれど、時間的に間に合わないことがギリギリになってわかってしまって、じゃあどうするかというと新しく何か書かなければいけないわけで、そりゃあもう困ったというか、困ったけど書くしかないというか、そこまでして義務的に扱う必要はないんじゃないかなんて思ったりしたんだけど、それでも守るべきものは必要だって言い張っている自分が強硬に主張を始めて、そもそも可能なのにできないのが何となく癪だし、つうかスケジューリングもう少し考えろよ、って感じの今日この頃です。
ギリギリまで粘るということはある種美徳のようにも感じられるわけだけど、それでも全然そんなことはなくて、むしろリスクマネジメント的には最悪のものなんじゃないかと思う。そりゃあたしかにスポーツなんかで試合終了ギリギリから、趨勢をひっくり返すのを見たら、スカッとすることこのうえないけれど、そんな試合なんて、おそらく1000試合に1試合くらいのもので、そんなものを通常のようにやられてしまったら困ってしまうものだし、むしろそれくらいの頻度だからこそ、奇跡という言葉が称されても文句はないわけさ。だけれど、それに懲りずに何度もそういう行為を繰り返してしまうのは負の学習効果という他なくて、劇的な成功体験に絆されて、冷静な判断をできなくなっているということに他ならない。自分を信じる?バカなこと言ってんじゃないよ、常に120%の力なんて出せるわけがない。大体想定の半分くらい、いや1/3くらいに見積もっておかないと、大抵うまくは回らないのである。自分ですら、そうなのだから、まったく他人ときたら、もっとひどいものである。一度やったことは当然できると思い込んでしまって、それを当人に押し付けてしまうのである。奇跡と呼べる一回だったかもしれないのに、そんなことはおかまいなしである。だがしかし、それも仕方がないことともいえる。我々が限られた経験しかできないわけで、その中から帰納的に法則を導き出す。仮にその人を判断するのが奇跡の一回だとすれば、それがその人のポテンシャルと考えても仕方のないことだろう。そしてそれは逆もまた然りなのである。つまり、他人は私の全側面を見ているとは言えず、評価に関しては的確とは言えない。
とまあもっともらしい言い分であるが、実際のところ、シュレンディンガーの猫の逸話よろしく、観測されたことが事実になってしまうのである。悲しい世の中である。つまり観測されないポテンシャルを持っていると思われたあの人やこの人も、観測されない以上ポテンシャルなんて存在しないのである。じゃあ観測がすべてだっていうなら、ポテンシャルってなんだ、っていう話になる。見えないじゃないか。そりゃあもうごもっともな疑問で、よくわかんないものである。「こいつすごそうじゃね」みたいな感じのはどこから生まれるのか。それは物事を帰納的に分析した結果生み出された抽象的解釈から生み出される推論である。などと小難しそうなことを言ってみたが、ざっくりいえば、これまでみた凄そうなやつの要素をちょこっとだけ持っている人をポテンシャル高そうというわけである。こう言ってしまうとなんか全然すごくなさそうだ。そう。実際すごくないのである。あくまでも全体が見えてないからすごく見える感じがしているだけなのだ。端的に言えば、女性がとる自撮りみたいなものなのである。よいパーツのみ見せておけば、こいつすごいんじゃね、と思わせられるという叙述トリックもびっくりな鮮やかな犯行である。この理屈を使えば、誰でもすごい人に見える可能性があるということなのだ。これはすごい!画期的な発見である。たぶん多くの人は当に気づいている可能性があるがまあそれは置いておこう。人というのは断片的にしか観測できない生き物なのだから、その断片をきれいに見せられれば、全体がきれいに見えるということだ。つまり私の相対的に優れた部分のみを世間に出すことができれば、そりゃあもう優れた人物になること間違いなしである。編集技術最高である。こうして様々なメディアが編集技術を駆使して作り上げ、非の打ちどころのない人物が生まれるのであろう。でも実際はそうではないのだ。切り取られた一部分だけ見られ---しかもそれは美しいところだけなのである---全体を判断されたらたまったもんじゃない。ちょっとの間違いで揚げ足を取られてしまう。しかも他人ならまあいいけれど、そういう姿を見て自分も勘違いしてしまうのだ。ああ、俺にはこんなダメなところがあると思っていたけれど、実は非の打ちどころのない人物だったのかあ。そう思っていると、思わぬ落とし穴である。残念なことにそこに映っている「自分」とここにいる「自分」は全くの別人なのだ!悪いことなんかやるわけないから、思うままに暮らしたら、実はそれが悪いことだったなんて!!そしてそれに加えて、有名税と呼ばれる謎の圧力が存在するから、そりゃあもう深い深い落とし穴である。有名税とは何かというと嫉妬である。我々凡人からすれば非の打ちどころのない人物など、嫉妬の対象でしかないのである。私たちはこんなつらい思いをしているのに、この人たちはのうのうと暮らしやがって、きいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃということで、足の引っ張り合いが始まる。名誉を手にした人の足をえいさこらさと引っ張っていく。だから彼らは少しでも弱みを見せれば奈落へと落ちてしまうのだ。戦争もここ数十年していなくて、おそらく平和と呼べるこの時代においてもこの有様である。戦う必要なんてないんだ、など訴えかけたとしても、この戦いは終わらない。血で血を洗う戦いが仮に終わったとしても、今度は足の引っ張り合いが始まってしまうのである。ともすれば、足のない蛇のような生き方が求められるわけで、こうしてしょうもない足を出したまま生きている僕は文字通り蛇足の存在と言えるのかもしれない。