黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

感情的になっちゃいけないの?

この間、電車に乗っていたら目の前で女子中学生が3人で話していて、ちょうど頭もぼんやりとしていたから、何気なくその会話を聞いていた。3人の力関係的なものは話を聞き始めてすぐにわかって、女王様気質の子と内気なふたりって感じで、話の内容も女王様が話したいことを話して、それに同意したり、ちょっと過激になったところを二人でいさめるという感じだった。基本的に何気ない話ばかりだったのだけれど、その力関係があからさまな感じを聞いて、なんとなく学生時代の閉塞感を思い出すものだから、少しだけ憂鬱な気持ちになってしまう。ちょうどその頃、帰宅ラッシュの時間だったから車内がだいぶ混みだしてきていて、そのことにも彼女はぷんすかと怒ってみたり、離れた座席で赤ん坊が叫びだしたことに対しても、うるさいと言ってぶつぶつと怒っていた。よく言えば素直、はっきり言ってしまえば、感情的であることは間違いなくて、こちらからすると目の前でぴーちくぱーちく話している君たちの方がよっぽどうるさいのだけどなあ、などと思ったりする。じゃあ僕も同じように彼女たちに直接言えばいいじゃんというところだけど、正直なところそれを伝えたところでむき出しの悪意が返ってくるばかりでこちらには何のメリットもない。仕方がないから黙っているのである。年を取ってきたからか、元来の性格なのかは定かではないが、こうして悪意を他人にむき出しにすることは疲れるし不毛なこともあってめっきりと減ってきた。ある意味、感情を直接的に表に出せるのは若さの特権以外の何物でもないような気がするのであるが、一方で成長期という肉体的に不安定な状況にいるゆえにある意味仕方がなくその状況に追い込まれているとも考えられる。思春期にナイーブになりやすいのはそういう関係なのではないか、と勝手に考えてはいるけれど、元来人間というのはそういうものであって、感情が日に日に摩耗して妥協することに慣れている僕らの方が正常ではないのかもしれない。とはいえ、当時の肉体を借りに与えられたとしてももてあますことは間違いないだろうし、その時の感受性を今得てしまったとしたら、耐えきれずに倒れるのではないだろうか、などと心配になる。ともすれば、いつも元気な心身を守るために見て見ぬふりをするというのも理にかなっているともいえる。
そもそも感情とは何かという話になってしまえば、はっきりと答えることができないけれど、考えるに徹底的な客観性の排除なのではないかと思う。とにかく自分のことしか考えられなくなって、周りの全てのものが自分につき従って当然と考えてしまうことを感情的になると勝手に僕は定義している。赤ん坊の時はみんなそうなのだから、非常にプリミティブで素晴らしいものじゃないかとなるわけだけれど、それをぶつけられた日にはこちらとしてはたまったものではない。へいこらへいこらといつまでもつき従っているとこちらとしても感情的になってくるわけだ。ここで問題なのが自分一人では生きていけないという厳然たる事実に突き当たるということで、そりゃあどうでもいい他人に対してはどのような態度を取ってもまあおそらく問題はないわけだけれど、いないと困ってしまう人にはそれなりの態度を取らなければならないわけだし、もしかしたらどうでもいいと思っていた人がのちのちすごいしっぺ返しをしてくる可能性も否定できないということで、そうした紆余曲折があって、段々と折り合いをつけていくようになるのである。だから感情的になることそれ自体は問題はなくて、それによって周りがこちらから離れていってしまうのが問題なわけで、そういう状況があまり起きないような社会的地位を持っている人や恐怖とかで付き従えた従者がいる人であれば、大抵のことは許される。もっともそれも砂上の楼閣であるのだけれど。利他的になることは利己的にふるまうよりもメリットが多いという論もあったようだし、感情的になってしまうよりは、理論的にいかに自分を大切に扱ってもらえるかを画策した方が建設的なような気もする。そんなことができれば、という話だけれど。