黒歴史現在完了進行中(仮)

やることなすこと黒歴史

基本的には伝わらない話

「人は見たいようにしか見ない」と言ったのは誰だったか。まあたぶんあらゆる人がいろんなところで話しているのだと思うけど。まさしくその通りで、我々は同じものを見ているようで全く別のものを見ている。たとえば、誰かの部屋に行ったとして、ある人はきれいだと言い、ある人は汚いと言う。おそらく彼らは見ている部分が異なっていて、水回りを気にする人なら、その周りを重点的にみるだろうし、髪の毛が気になる人は床周りをじっくり見ていることだろう。価値観は人それぞれ違うわけだが、その基となるのは比喩ではなくその視点だ。見ているものが違えば、当然それに対しての反応も異なる。単純な話である。それと同様なことが言葉でも起きる。同じ言葉を発したとして、人によってその意味の捉え方は大きく異なる。言葉というのは抽象的なものだから、それぞれの具体的経験からそれに近いイメージを引っ張り出してくるのだけれど、その経験が大きく異なっていたらその時点で齟齬が生じるわけだ。またその場合だけでなく、ある一つの言葉が強烈であると、それに引っ張られて正常に理解できなくなるというケースもある。「嫌い」とか「憎い」といった悪意的なフレーズの場合はその後にどんな言葉が来ようとも、そうした感情に引っ張られるケースが多い。好意的なフレーズに関しても同様だ。そこで読解という分野が登場するわけだがこれが曲者で、多くの人に忌み嫌われている。端的に言うのであれば、文中に出てくる指示語がどれを指しているのか、とかそういう話ではあるのだけれど、国語の問題として扱われることが多い以上、解答は想像以上に入り組んでおり、高得点を取ることは困難だ。良くて7割と言ったイメージである。逆に言えば6~7割取れていれば、その文章の大方の理解はできているというわけで、そうした意味ではよく言われる「伝えたいことの6割伝われば良い」という発言は的を射ていると言えよう。ただ、この文章のように起承転結もなく、論理的な帰結が行われていない文章で6割の理解を得るのは非常に難しいわけで、そうした意味では僕は文字を綴るたびに誤解を招いていると言えなくもないし、言葉を発するたびに想定していない印象を相手に与えることになる。ともすれば、我々は誤解製造機みたいなもので、そうした中で自分が正当に評価されない、誰も本当の私を知らないという悩みを持つことはナンセンスと言って差し支えない。プロが書いた文章を読解できてせいぜい6~7割なのだから、素人の我々の綴る言葉や話す言葉ならせいぜい3~4割伝わればいい方なのである。読ませる気もない文章を書いたり、思わせぶりな発言をするだけなら理解されないのは当然であり、そうされたいのであれば、多くの人が嫌うであろうキャラクター性を身に着けて、自らを記号化するしかない。わかりやすい文章というのは、ノイズを極力排除した文章なのだから、みんなに理解されやすい人間なら、そうするしかなかろう。ただその一方で、排除されたノイズがその人間を人間たらしめているという側面もある。要するに記号化されて、カテゴライズされてからのノイズが個性となるのである。「その人自身」と話がしたい場合、記号化された先の個人の部分と対話しなければならない。そうすることは非常に面倒で、生活水準や家庭環境が似通っていればまだ楽だが、全く異なる場合が往々にして多い。ある種ゼロに近い状態の中から手探りで相手のことを探っていくということになる。それは「わからない」、共感する部分が少ない、というところから始めなければならないわけで、そのためには互いに相手のことをよく見て、相手の立場を想像するということが必要となってくる。相手の立場になろうとするということは自らの身勝手な想像に相手を巻き込むわけで、当然摩擦が生まれるわけだが、それを隔てて、関係性というのは生まれるわけである。とまあ大仰に書いては見たものの、基本的に関係性を持つ人たちというのは多くの共通性を持っているわけで、そうした中で関係を気付くことは難しくないとは思うし、えてして仲の良い友人というのは、なぜか好きなものが同じで話が合う腐れ縁の人物であることが多いだろう。だからわざわざこんな面倒なことをしてまで人と付き合う必要はあまりない。ただこれができたらかっこいいよね、って話。