黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

一貫性のない

せっかくここまで書き溜めたのだからと改めて自分のブログを読み返していると、改めて一つの事実に気づいて驚愕する。適当に酔っぱらいながら書きなぐってる文章の方が面白い。衝撃的な事実に気づいた僕はいつに倣って酔っぱらいながら文章を書き始めるわけだ。そりゃあまあ世の中人の数だけ考え方があって、人それぞれ好みも違うのだろうけれど、間違いなく書いていて楽しいのはこっちの方だし、他の人の感想なんて出てくるわけもないから、このブログにおける感想は僕一人のものだけとなる。となれば、尊重されるべきなのは僕の感想であって、あるかもしれない何かに縛られる必要なんて露一つもない。自分の考え方を丁寧に伝えるブログなんて山ほどあるわけだし、そもそも自分の考え方っていってもブログに載せるような人っていうのは大体誰もかれも似たり寄ったりで、目新しい意見をかける人なんて特にいないわけで、ともすれば僕のように酔っぱらいながら公共の場で叫び続けるおやじみたいなリスキーな真似をするブログの方がよっぽど珍しい。別にオリジナリティがどうこうなんていう青臭い感情はないけれど、こっちの方が書いていて楽だし、市場も小さいっていうならどう考えてもこっちの方がいいじゃん。自己会議終了。賛成多数で文体ぐちゃぐちゃの勝ち、というわけで今後このブログはそういう感じでやっていきまーす、なんてことを書いたところでそうなるわけもなく、またほとぼりの冷めた頃にそれっぽい文章をまた書き続けるのだろう。飽きっぽいにも度があるわけだ。そもそも一貫性というのを人間に求めるのが間違っているわけで、誰だって環境に応じて常に変化している。とはいえ、こうして言語化してしまっている以上、コンテンツとしてのカテゴライズや消費からは逃げられないわけで、表現物を世に出したら最後、それが君のスタイルだ、となって、そこから逃げ出せば多くの人は離れてしまうのである。悲しい話である。変わっていくことが生命として自然なように思うけれど、コンテンツ提供者は変わらないという不自然なことを要求されてしまう。ただその一方でそうしたスタンスがコンテンツの徹底的な消費を生んでいるのは事実で、求められているものを提供し続けることはそのカテゴリの飽和をもたらすというジレンマがあって、それを防ぐためには先に進むか後に戻るかという選択肢しか選べないのだけれど、リスクを伴うことなんて誰もしたくないから、降りる人もいない電車にどんどん人が乗り込んでくるという状態が起きるわけだ。そうなると各種クリエイターの方々は一貫性を保ちつつも、新しいものを生み出さなければいけないというダブルバインドを押し付けられるということだ。そう考えると常に第一線で物を作っている方々というのは恐ろしい苦悩にさいなまれているわけで尊敬の念を禁じ得ないわけだが、正直なところそんなことは知った話ではないので、できることなら一貫性がないことを一貫するなんてカッコ良いことを、言うだけではなくやり続けたいところだなとは思う次第である。