黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

慣れと所有

タバコを吸いながら、ぼけっと自動販売機を見ていたら、サンプルの缶が非常によくできていることに気づいた。何気なくそこらへんにあるものだけれど、実は意外とお金がかかっているし、人の熱意が入っているものなのだなあと思う。こういう風にふとした瞬間に当り前に目の前にあるものが、実は当たり前ではないということに気づいたりする。みんな日常だなんて簡単に言ってしまうけれど、それだって奇跡的なバランスの上で成り立っていることが多い。平穏無事なんてのはその最たるもので、それに気づくのは失われた時だけという恐ろしいものだ。物を持つという恐ろしさはその辺りにあって、形のあるものならまだいいけれど、ないものなら厄介だ。たぶん何かが失われたと思うことは「それ」を持っていたからで、所有することは何かを自分の中の一部として扱うことでもある。何が面倒なのかと言うと、形のないものは基本的に他人を媒介とするから、非常に不安定でコントロールすることは非常に難しい。にもかかわらず、こちらはそれを所有して操作できるものだと感じているから、そこに大きな矛盾が発生する。これは人間の持つ業とやらなのかもしれないけれど、自然と人間という関係においても変わらない。天候を操作することは確かにできないけれど、天候にかかわらず普段と同じ振る舞いをすることができるわけで、それは大意では天候をも操作できると感じているということだ。ところがそうした傲慢もより大きな自然の前では無力という他なくて、我々がどんなに綿密な予防策を打とうともあっけなくそれは砕け散る。結局どんなに強固に作ったところで、外的要素にはかなわないのである。要は環境が人間を設定するということだ。生まれ育った環境がすべて自分を作り上げてしまって、自分ではどうにもならないのは非常に歯がゆいし、悔しい。とはいえどうにもならないこともあるのである。というような本を書いたからなのか、発言がアレだったからなのか、炎上した作家がいたなあなんてのを思い出すわけだけど、まあみんな自分の力は可能性無限大で、他人や環境なんて関係なく、努力すれば必ず報われると思いたいから仕方がないよね。僕もそうだといいなあ、ってやっぱり思うもん。それが人間だもんね。