黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

リハビリノリハビリ

先日ようようやっとパソコンが修理から戻ってきて、めでたく更新を再開することにした。ちょうど更新が滞っていた時期にそういうことになったので、完全に飽きたみたいになってしまったのがいささか心外な気もするが、そういう側面も実際にあるのだろうななどと思ったりもする。何事も休みなく続けられるのがいいことなのだけれど、休んでしまった時にしれっと復帰する能力も大事なのだとは常々思っている。たいてい三日坊主の原因はそのあたりにある。
PCが壊れてしまうと思うのが、自分がどれほどこの小さな箱に依存しているのかということだ。娯楽ということだけでなく、僕の持つほぼすべてのスキルはこれを介したものなので、本当になすすべがなくなってしまう。この期間に一つ書類を作っていたのだけれど、本当に閉口した挙句、最終的には両親のPCを借りて最終的なものを作成した。今の時代、どこかしらにはそういう機器があるから代わりのものを簡単に手に入れることができるけれど、逆に言えば探さなければいけない状況なわけで、それはある種インフラと似ている。こうした感覚は、関東に住んでいる人間なら数年前の計画停電でうっすらと感じているはずなのだけれど、おそらくもうみんなあまり覚えていない。あって当然のものがなくなるのはとても面倒なことなのだけれど、大抵は自分がどうにかする必要もなく、誰かが復帰させてくれる。そんな些細な痛みというのは割とすぐに忘れてしまうものだ。そういう意味ではいい肌感覚を思い出させてくれたように思う。
こうした「喪失」の感覚は実は非常に貴重なもので、大抵の場合、「挫折」と称され、人生の物語の中の伏線としか解釈されない。つまり、こうした概念はあくまで「成功」というカタルシスのための前座としての役割しか与えられず、単一の感覚として、多くの人は受け入れることが難しいのである。そうした性質ゆえに純粋にその感覚を味わうことも思い出すことも難しく、「この時期があったからこうなった」という非常に暑苦しい文脈でしか共有されなくなってしまうのだ。この文章も完全にそういう構成になっていて、「喪失」が何かの発見に繋がるという非常にポジティブな結論を引っ張り出しているわけだ。これは何か問題を見つけた以上、改善点を掲示しなければいけないという感覚によるもので、多くの人がそれを求めているし、そういう思考系統を持っている。何が悪いことがあれば、生かそうと無意識にしている。これはおそらく「喪失」を埋め合わせるための心理的作業でしかなくて、復興というのもそういう側面から考えるとわかりやすいように思う。
このブログは個人的にリハビリみたいなものだと思っていたのだけれど、リハビリというのはまぎれもなく喪失の補填作業であって、だからそうした側面から見ればこれを続けることによって、僕の中の何かが取り戻されているのだろう。しかし、取り戻すという感覚は非常に傲慢なように感じられてしまうからあまり好きではないからそういう言い方は避けて、新たな側面の発見程度にしておきたいものだ。ただ、今日の記事に関してはスパンが慣らし運転みたいなものだから、それを称するのは間違っていないだろう。
まあただ、みんな「失ったものを取り戻す」物語、本当に好きだよなあ、って思う。