黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

四月一日という物語

個人的にあまり嘘は好きではないのだけれど、それは嘘を吐くのが下手なので、吐かれることばかりでうんざりしてしまうことが多いからだ。些細な嘘なんて誰でも持っているものだし、それに対していちいち咎めるつもりはないけれど、いかにも悪意的な嘘を吐かれてしまうと、げんなりしてしまう。それは嘘そのものよりもその裏側にある悪意にうんざりするわけで、そう考えると嘘自体には罪がないようにも思えるが、人を欺こうとする行為というのは多くが虚栄心や利益のためだったりするので、好きではないということにしている。
ただ、どこのだれが作ったかわからない今日のような日には悪意のない嘘がばらまかれているわけでそういう意味では非常に微笑ましい日だ。どれが本当のことなのかわからないようなこの時代にあって、嘘を嘘だとわかる安心感がそこにはある。嘘、本当と言えばクレタ人の話がよく引き合いに出されるが、「嘘を吐いている」と嘘を吐く人はあまりいないわけで、そうした意味では「本当のことを言っている」と言う人よりも信用できるようにも思える。
そもそも、僕も含めて大抵の人間は不都合な真実とやらを認めることがそうそうできないわけで、その「真実」それ自体を嘘だと思い込んでしまう。人生を物語と呼ぶのはとても皮肉めいていて、どんな人でも自分を語る時には少なからず欺瞞と虚構が意図せず発生している。過去は確かに存在しているけれど、それは非常にふわふわとしているもので、見方次第ではどうとでも捉えられてしまうわけだから、その時の感情なんて表現される代物は大抵は結果論みたいなものだ。
そんなことをうだうだと考えてしまうと、それこそ心が参ってしまう。個人的には何が嘘で、何が本当かということにはあまり興味がない。虚構として語られる物語の中にも真実めいた何かが少なからず存在しているわけで、嘘だからと切り捨てることに意味は何一つして存在しない。真実は求めれば求めるほど、どこかに逃げてしまうような気もしている。
嘘だとわかっている物語は優しい。ともすれば今日という日もやさしい一日なのではないか、と思ったりもするのだ。