黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

説教という同調圧力

どこかの本で「働くのは周りの人にきちんとしていると思わせるため」的なことが書いてあったけれど、まさしくその通りだなと言うのを実感する。人と会えばやれ働け、やれ親のすねをかじるな、などと説教をされる。その論理のある種の正当性にはこちらも気づいてはいるものの、一応こちらはこちらで成立しているのだから、と思わないでもない。
まあもう何度も書いている気がするけれど、人は自分が正しいと思うものを常識と考えてしまう節がある。もちろん経験からしか学べないのだからそれは仕方のないことだとは思うけれど、とはいえ自分の知らないものを排除しようとしてしまうのはあまり想像力が欠けているのでは、と思わないでもない。しかしこれは僕が今虐げられるような立場にいるからそう思うわけで、これが逆の立場になれば何のためらいもなく、彼らを踏みつぶすことだろう。数は正義とよく言ったものだが、自分が勝てると思った相手に対しては人間驚くほど残酷になれるものだ。自分が正道を歩いていると感じていればなおさらのことだ。
そして、その正しさは無意識のうちに周りの人に強要される。類は友を呼ぶというが、それは正義が共有されている人間の方が付き合いやすいということに他ならない。人間の軋轢というのは概してそれぞれの正義の違いでしかない。

以前、ある人を話した時に、「若いうちは自分のコピーを作りたがってしまうもの」という話を聞いたことがある。ものづくりの現場において教育というのは非常に難しくて、感性が違うの一言で片付いてしまいそうな諸々の中に何がしかの普遍的な論理を教え込んでいかなければならない。そうした個性と「基礎」の境目というのは非常に難しい。良かれと思ってしたことが相手の個性を失わせることになりうるからだ。だから個性を見極める懐の深さと、普遍性を教え込める強さの両立が求められるわけだが、それは若い人間には難しいとのことなのである。

こういう考え方に目を向けると、人の話を何でも聞いてしまいがちだが、最も伸び悩みやすいのは人の話をよく聞くいい子なのだそうだ。それも当たり前の話で、相反する正義を自分の中に多数抱えてしまえば、生きていく指針もぶれていく。成功する人はパワフルな人が多いというが、そうした活力というのは盲目的な自身の正義によるものだろう。多少辛くても、信じているものがあればできることは増えていく。近ごろの若者はやる気がない、と言われてしまうのはおそらくそれに関する時代背景の変化の問題で、ニヒリズムに満ちたバブル崩壊後を生きてきた世代には明確な正義を持つことは難しかったりする。違う価値観同士が対話をするためには互いに相手を理解するという意識が必要なのだが、一方だけそれを持っていた場合、説教という名の一方的な殲滅戦になっていく。弱者の懐の深さは弱点にしかなりえない。

そしてこの主張もある種の説教となることであろう。ただ一つ違うことは見たくなければ閉じることができるということだ。これが酒の席でのものだったらと思うと、目も当てられないことになるだろう。ただ発信することで自身の正義を確かめるという弱さはどの人にでも存在しているのだろう。