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黒歴史現在完了進行中(仮)

やることなすこと黒歴史

久しぶりなので雑記

間が空いてしまうとどうも身構えてしまっていけない。なんとなく、久しぶりに友人に会う時の緊張感と似ているような感じがする。もう少し間が空いてしまえば、おのずと書きたくなるのだろうけれど、そこまで待っているのもなんとなく癪な話である。ここはなんでもいいから適当なことを書きなぐって、落ち込んだ気分を一掃したいものだ。
落ち込んだと言っても、そんなに難しい話ではなくて、単に周期の問題でしかないのである。大体、浮かれた後は緩やかに下っていく。特に最近は世間でいろいろあったようだから、なんとなく勝手に落ち込んでいた。別に周りの人は特に相変わらずという感じなのだけれど、テレビとか見ているとやっぱり大変そうで、こっちがのんびりとしているのが申し訳ない気持ちになってくる。こちらはこちらで普通に過ごすのがいいのはわかってはいるのだけれど、なんとなく動きづらい。そうしているうちに悶々として来てしまうもので、そういうときは体を動かすのが一番良いのだと切実に感じる。
前回の震災のときも同じような感じになったのは覚えていて、その時は地元が大変だったからボランティアをした。何か貢献できているという感覚はそうした申し訳なさをうまいこと解消してくれていたように思う。たぶん僕と似たような感覚の人は多くいて、当時はボランティアとか支援物資とかが大量にあったと思う。免罪符としてのそれらは当人には有用だけれど、時として邪魔になるのも事実で、そうした時に逆切れ的なことをされたのを覚えている。彼らにとって重要なのは免罪符。だから「弱っている人を助ける」という行為が必要なわけで、その人たちが大丈夫と言われることに対して、許せないということが往々にして起こる。多くの人は大丈夫なら良かったと言ってくれた一方で、そういう風に言う人もいたことには驚いた。
助けるとか手伝うなどの行為の中にあるエゴは出来る限り取り払わなければいけないと思っている。それは主体はあくまで他人にあるからだ。そこで自分の論理を押し出しすぎてしまうと、徹底的に破綻してしまう。常識というものはそこには存在せず、状況があるだけだ。自分が変質するきっかけには良いと思うけれど、自分の正義を押し付けたいのであれば、人を選んでする必要があるのではないか。どんなにその論理や常識に正当性があったところで、状況に見合ったものでなければ、間違いなく受け入れられないし、その人たちの価値観を尊重しなければ、そこにコミュニケーションは存在しない。他人の領域に踏み込むというのはそういうことなのだと思う。