黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

健康と健全

人は不健康になった時に健康の重要性に気づくものだとはよく言う。風邪を引けば、ちゃんと体調管理をしようと多くの人が思うことだろう。しかし、またいつの日か同じことを繰り返す。継続すること、記憶し続けることはとてもつらいことだ。若いうちは健康であることが当たり前である以上、健康を意識することは不健康であることの証なのだということをみな無意識的に気づいているのかもしれない。
昨今の健康ブームというのはそれを如実に示していて、それは多くの人が健康でない状態にあるか、高齢化が進んでいることを表しているともいえる。年を取れば、自ずと体力が落ち、体のどこかしらに不調を覚えるようになる。そうした時に生じるのは一過性の痛みのみならず、自分の体への落胆もあるだろう。そして、それは若さへの渇望にも似ていて、そこから生じる日常生活への不安は継続性を伴ったものとなる。多くの人を行動に走らせるのは願望のような前向きな考えよりも不安のような負の感情だ。わずかな痛みと未来への不安を伴った体は健康への強い執念に似た何かを生み出すだろう。若い人間よりも年老いた人間が生への執着を示すのは体の不調があるからのようにも思える。
今ではだいぶ無くなったが、僕自身も10代の頃は健康でないことに対する憧れのようなものはあった。暗いところでわざと本を読んだり、夜遅くまで起きていたり。それは好奇心に似た何かのようにも思えるし、単なる反発のようにも思えるが、何にせよ未知の何かへ変化することを望んでいたのだと今となっては思いたいものだ。とはいえ、そうした健康に対する何かを鼻白んでみていたのも事実だ。今となっては失笑物だが、若さゆえの傲慢ともいえるだろう。いわゆる中二病というやつだ。
しかし、どうしてそんなに健全であることに対してアレルギー反応を起こしてしまうのだろう。やっぱり国民性的な何かなのだろうか、たとえば判官贔屓的な(ちなみに「ほうがんびいき」と読むことを今知った。テキスト変換であらゆる間違いに気づけるこの時代というのは本当に便利である)。正義のヒーローを望むのはディスプレイの向こう側のみである。いやこのご時世ディスプレイの向こう側ですら、嫌がられるのかもしれないが。
これは思うに多くの人が自身の悪性に対して意識過剰になっているからなのではないか。人によって正しさというのは当然異なるわけだが、そうした中でも常識の名の元、ある程度の規律が求められる。これは各共同体によって大きく異なるわけだが、それがある程度のラインを超えるとある種の悪性に対して極度に敏感になってしまうのだ。これは他者への非難と共に自身のそうした側面を自覚させる作用も当然生じさせる。自身の悪性に気づいてしまえば、言われもなき正義というのは疎ましいものだ。そんなものは信じられない、あんないいことしてるけど、どこかに悪いところがあるはずだ、となる。良くも悪くも平等意識が芽生えてきたともいえるのだろう。
しかし、病気のときは健康になろうと試みるのに、自分が悪いと気付いた時はそれを治すのではなく周りも悪いはずだ、となってしまうのは面白い。精神的なものは性質だとあきらめてしまうのだろうか。それか単にメリットを感じられないからなのだろうか。生きるために良くあろうとするというのは動物の生存本能として当たり前のわけだが、逆に考えればそうした道徳や素晴らしい生き方というのは動物が本来持ちえないものだと言えるのかもしれない。まあ当たり前といえば当たり前の話なんだけど。