黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

伝言ゲームによる情報の変質

東京オリンピックを開催しなくなる可能性があるらしい。都知事が変わるかもしれないらしい。なんだかいろいろ大変な世の中だ。昔からこんなにバタバタとしていたのだろうか。そういえば前の都知事もスキャンダルで辞めたのだっけ。ここ数年めっきりニュースを見ていなかったものだから、あまりの激動っぷりに驚いてしまう。なんにせよ、スキャンダラスな内容がネットのどこかでは常に騒がれている。情報過多ともいえる時代だからさもありなんという感じといえばそうなのだけれど、数年前に比べるとネットの力というのは随分強くなったものだなあとしみじみ感じる。
ネットが普及し始めたとき、マスメディアVSインターネットみたいな構図が考えられていて、今もそうした側面は存在するのだけれど、その二つの距離は格段に縮まった。youtubeの動画がゴールデンタイムに流れていたり、なんてことはもはや珍しくないし、テレビの内容がニュー速だけでなくネットニュースにも載っている。互いがそれぞれをソースにするという形になってきているのだ。ではマスメディアの力が衰えたかというとそういうわけでもなくて、やっぱりほとんどの家にテレビがあることを考えるとそっちの方が発信力は高いのかもしれないと思う。ただ情報の信憑性に関して考えると、そうでもないのかなと感じている。報道という点に関しては一日の長があるだろうけれど、それはあくまで事実をきちんと照らし出した場合だ。ワイドショー風に誰かが意見を話し出すと一気に胡散臭くなって、そのあたりのツイッターのアカウントと変わらなくなる。それに健康法などの科学的な番組に関しては昔から詐称が存在している上に、正しいとされているものも効果が正しいとされているものはそう多くはないだろう。別にテレビが悪いと言っているわけじゃなくて、情報というのは発信する側がコントロールしているものがほとんどだということだ。それはどんなメディアにおいても変わらない。
一般向けに簡略化した説明を嫌う人が少なからずいるが、それはおそらくその簡略化の過程で情報が変質してしまうことを嫌っているように思う。伝言ゲームをやってみればわかる話だが、人から人へ言葉が紡がれていくと気が付けば、全く別の意味にすり替わっている。情報化社会の恐ろしいところはそのあたりで、無数の発信源が存在し、交流しあうことで、一次情報からどんどんと離れていってしまうのだ。こうした状況の中でデマに触れることはもはや防げないと言える。
こうした中で、一つの情報源を信じるというのはとても危険なことだ。単なる噂話ならまだしも、自分の生命にかかわるような切実な情報に関してはきちんと調べたほうがよいだろう。そもそも物事は多角的な側面を持っている。一つの物事を二人が説明したとして、それぞれが全く別のことを言う可能性は高いのではないか。単純に考えればわかる話なのである。
確かに多すぎる情報は手に余るし、その確実性を調べる時間はもったいない。だからといって、自分の目に映ったもの、聞いたものをすべて正しいと思ってしまうから、テレビは悪になり、ネットも悪になるのだ。本来、テレビのほとんどは適当なものだった気がするし、ネットソースなんて言ったら笑われたのである。スキャンダルをバッシングして、こき下ろす意見を発信し、踏ん反りかえっている人のどれほどがその矜持を持っているのか。二次情報を扱うのであればきちんとしてほしいところだけれど、そうはいかないのだろうなあ。単なる井戸端会議だったものが、文字として発信され、世論とされていくことは果たしていいことなのか、悪いことなのか、考えてしまう。