黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

下書きという名の残留思念

書きかけの文章が山のように放り捨てられている。ブログの記事もそうだし、小説もそうだ。ただ積み上げられた思念の山が僕の後ろにはそびえたっている。下書き欄には結論の直前で閉じられた文章ばかりだ。
あるとき、小説を書こうと思い立ったことがある。高校生の頃だっただろうか。一万字ほど書き上げた所で唐突に放り投げた。頭の中で描いた鮮明な景色が形にできないことに苛立ちを覚えたのだと思う。それ以降、僕は一日で書き上げられなかった文章は捨てることにしている。しかし、一日で書ける量など数限りがある。だから僕の書く文章は長くても2~3000字だ。それに一日で書き上げるものなどに深みはない。そうした中途半端さの中で文章を書き続け、手慰みとして扱ってきた。それが悪いことだとは思わない。娯楽などはしょせんそんなものだからだ。
大学に入ってから、とある友人が作品を途中で投げ出すことに対して、かわいそうだと言った。その感覚はいまでもわからないが、ずっと心に残っている。人目にさらされることで創作物は作品として消化していくのだろう。しかし、作り上げられたものが全て表に出ることが本当に正しいのだろうか。みな、生きていく中で人知れず努力や苦労をしている。日の目を見ない作品はそれのようなものなのではないか、と考えてしまうのだ。だからある意味ではこの文章は努力やなにやらのひけらかしみたいなものだ。みっともないことこの上ない。ただ、そうしたものも供養してあげてもいいのではないかと考えてしまった。
これから先、このスタイルを変えない以上は、それらが別の形で表出することはあっても、あらためて書き出されることはないだろう。適当なことばかり書いているくせに、と思うかもしれないが、真面目にやって、それがかなわかった時ほど、恥ずかしいしみっともないのだ。だから僕の下書きフォルダには夢半ばで敗れた恥ずかしい姿が並んでいるともいえるのかもしれない。