黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

夏のおもいで

夏の強い日差しの中、砂浜の至るところに傘が咲いている。
視界のほとんどを埋め尽くす肌色は海水浴などもう10年近くしていない人間を圧倒させるには十分だ。そもそも駅の構内程度で見かけるような薄着に目を向けるのにすら、抵抗があるのだ。身体の半分以上を露出している人ばかりの場所というのはいささか刺激が強かった。
場所は湘南、逗子。言わずと知れた海水浴スポット。ともすれば、家族連れよりもイケイケドンドンのにーちゃん、ねーちゃんばかり。肌は真っ黒でサングラス、ムキムキの体や豊満なボディを見せつける。ひと夏のアバンチュールを謳歌しようとしているのだろうか。
ワンナイトラブなんていわず、昼間からどこかにしけこんでいくのではなかろうか。人生、一度くらいそんな経験をしてみたいものだ。
よーしじゃあこれからがんばるぞ、となるわけも行かず、汗の張り付いたジーンズを引きずるように歩きながら海岸沿いを進んでいく。残念なことに見かけだけ立派なリュックの中には水着など入っていない。
仮に持っていたとしても、体一つであの中に飛び込んでいく度胸は僕にはなかっただろう。



毎年、夏はどこかに旅行することに決めている。
東北、北陸、九州。大学に入ってから毎年どこかしらに出かけていた。しかし、今年はそれだけの予算を組むこともできず、それならと、関東近郊で場所を探していた。
単純すぎるが、夏、海、湘南、という甘い響きに誘われた僕は旅行と呼ぶには若干さびしい、湘南日帰りツアーを実行した。ツアーと言っても、なんのことはなく、ただふらふらと歩くだけだ。

しかし、この炎天下の中、砂浜を服を着て歩いているのは我ながら若干滑稽で、わざわざこの季節にしなくても、といった後悔は若干心の中にあった。
そもそも海というと、夏のイメージもあるが、どちらかというそれ以外の季節の方が僕は好きだ。そして人が少ないさびれた感じならなおよいだろう。だからこうした景色は物珍しく感じられて、新鮮な感覚がある。
テレビやディスプレイ越しには見慣れたはずのその光景が実際に存在しているのか、というおかしな感覚。
このご時世、インターネットを使えば、どこの景色だって見ることができる。
しかしそれは知識として消化されてしまうからか、物語を読んでいるかのようにいまいち現実味がないのだ。自分には全く縁のない世界に一瞬触れたような気がして、ちょっとした楽しさがある。



浜辺にはシーズン真っ盛りだからか、海の家が大量に並んでいる。
僕の記憶の中にあるのは座敷風でオンボロな小汚いものばかりだったけれど、場所柄なのか、時代が変わったのか、目に映るのは塩水に濡れた体で入るのをためらってしまうような小洒落たものばかりだ。
スピーカーから流れるDJ風の声から結婚式なんて言葉さえ聞こえてくる。湘南の海での結婚式なんて、ディズニーランドでのそれと同程度には非現実的なもので、本当に世の中には色んなことを考える人がいるものだ、などと素直に感心してしまう。
何も知らない人たちにちょっとした祝福を受けるのはなんであれ、気分の良いものだ。
なまじ知り合いにされるよりも気軽で素直に喜べるような気さえする。
ひと夏の~、なんて響きにあこがれる人たちの感覚は意外とそういうものなのかもしれない。


海岸を抜けた先をさらに進むと、道は山の方へと向かっていった。
電信柱を見ると、葉山、とある。言わずと知れた高級別荘地だ。
建物が見えないほど、広大な庭を持つ家や、お城と呼んでも遜色ないようなものがちらほらと目につく。

一体住んでいる人はどんな暮らしをしているのだろう。
ちょっとの期間を過ごすためだけであろうこの場所を手入れするためだけに住んでいる使用人一家とかでもいるのだろうか。
仮に僕がこの先びっくりするような財産を手に入れたところで、こんな場所に住めるとは到底思えない。せいぜい、使用人として入るのがいいところだろう。
ただそれでもいいから、こうした世界を垣間見てみたいと考えてしまった。
しかし、こうしたものは想像の中で繰り広げるほうがよっぽど楽しくて、現実は意外と淡々としているのだろう。いわば先ほどの話とは全く逆のものだ。情報として整理されているあらゆるものは何がしかの編集が入っていて、その余白には膨大な退屈が隠されている。垣間見るというのは、物語を読むような、あるいは画像でそれぞれの地域を見るようなもので、現実味があるだけで現実なんかではないのだろう。



葉山公園につく頃には日が沈みかけていた。高台のベンチから眺める砂浜には全裸の小学生の男の子が周りをいとわずはしゃいでいる。
やっぱりこの人の少ないさびれた海の方が僕には馴染みがあった。安心感に近いこの感情は実は寂寥感に似ている。

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