黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

けり

最近書き始めては途中でやめるみたいなことを散々繰り返してきたせいか、それが癖になってしまっているようで、何度書いても書き終わることがないのを繰り返している。べつにこんな雑文にはっきりとしたはじめと終わりがあるわけではないわけだし、適当な所で切り捨てて、まとまったということにしてしまえばよいものの、こびりついたプライドがそれを許してくれない。いつの間にそんなに偉くなったのだ、などと自問自答しながら迎える正月の終わりである。
冬籠りの準備と即して、古本屋で大量に買い込んだ本の山は、年末年始の特番に飲み込まれて、不毛な日々を過ごした証拠と言わんばかりに依然高々とそびえたっている。別に本を読むことに大した意味があるとは思わないけれど、やると決めたことを放りっぱなしにするのはなんとはなしにきまりが悪く、そのばつの悪さを文章を書くことで発散しよう、などと考えている次第である。
しかし、いざ書き始めようとすると、筆が全く動かない。頭の中ではすでに数々の名文が生まれているというのに、いざそれを形にしようとするとたちまち霧消してしまう。何ごとも頭の中にあるときが一番素晴らしいものなんて言うけれど、全く持ってその通りだということをまざまざと気付かされる。ともすれば頭でごちゃごちゃ考えずに、その場の空気やら勢いやらに任せてしまうのが一番である。そもそも文章というものはどうしても書きたくなったときに書くもので、それ以外のときは大抵の場合駄文に収まる。しかし、最初から素晴らしい文章を書き連ねようとしようものなら、たちまち何を描けばよいかわからなくなってしまうもので、その点駄文でも書きなれていると、どうしても書きたくてたまらない時にスムーズに筆が進みやすくなるような気がするのである。
ここに至るまで山ほど書きたいことがあったわけだが、大抵は道半ばにして消え去っていった。消える程度のものなのだから、大したことはないのだろうが、それにしたってもったいない。何かが生まれたのだから、閉じてあげたいと思うのは人間として道理だろう。仕事でもないし、創作というほどのものでもない。しかし何かに「けり」をつけることは重要だ。何にでも終わりはあるもので、終わっていないと思い続けることは自由だが、そんなのは悲しいだけだ。
割り切れないような感情が山ほどある中で、ひとつひとつに印をつけてあげれば、少しは楽になるだろう。中途半端な諦めではなく、きちんとした終わりを迎えてあげたいものだ。