黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

よる、ねむる

夜、ひとりで眠ることができなくなったのはいつからだろう。
暗闇の中で微睡みを待つ。その闇の中にいくつものイメージが浮かんでは消える。どこからが夢でどこから妄想なのか。まぶたの裏に描かれる色彩は太陽の下なんかよりよっぽど鮮やかで、極彩色と呼んでも差し支えのないほど。奏でられるおはなしは魅力的だったり、哀しくて仕方なかったりもするけれど、それでもとても心を揺さぶってくる。そんな空想を見ることはいつの日からかなくなった。

高校生の頃、眠ることが嫌いだった。寝る時間があるのなら、もっと楽しいことができるのではないかと考えていた。本を読んでみたり、ガラケーをポチポチといじってみたり、深夜ラジオを延々と聞いて見たり、とかく眠りにつくのは空が明るくなり始めるころだったように思う。たまに早く寝ようと布団をかぶり目を瞑ろうものなら、あらゆる妄想が頭の中に繰り広げられて、結局のところ上手く眠ることができず悶々と過ごしている。そんな夜ばかり過ごしていた。思春期特有の悩みを何度も蒸し返したりして鬱屈とした気持ちになりながら、次の朝日を迎える。でもそれはそれでよかったような気もするのだ。それはきっと「ひとり」になることができる唯一の時間だったのだろうから。

それから10年ほどの時を過ごした僕はひとりの夜を迎えることはほとんどなくなった。寝る時間だって、誰にも左右されない。何時まで起きていたって誰にも何も言われることはない。耐えられなくなるほどの眠気を迎えれば、目を閉じればいいだけのはなし。それまでの時間を何がしかの娯楽でつぶしていればいいだけなのだ。気が付けば、暗闇の中で目を閉じて眠りを待つ時間は無くなっていた。なぜならテレビだって、ラジオだって、webの動画だって、僕が睡魔に負けるまでの時間をいくらでもつぶしてくれたからだ。なんなら酒を浴びるように飲んでしまえば、気絶するように眠ることができる。もう孤独な夜を迎える必要性なんて、どこにもなくなってしまった。

もう僕は「ひとり」で眠ることができない。眠る前にはかならず何がしかの音声を耳にしながら、眠りに就く。インターネットを開けば、誰かがいる。それが実際の人である必要なんてまるでない。「誰かがいる」という幻想が僕を眠りに就かせてくれるのだ。気が付けば、僕は孤独に耐えることなんて、とうにできなくなっていた。

ある時、「ひとり」で眠った夜があった。その夜はなぜかとてももやもやとして、ひどく不安な夜だった。暗闇の中、まぶたの裏側には小さいころ見ていたはずのいろんな光景が繰り広げられて、忘れていたことをいくつも思い出した。街灯の光、ふるさとの風景、優しかった祖父母、ひとりでさまよった深夜の街。それはとても刺激的で、頬には涙の筋がいくつも流れた。とても満たされたような気持ちだった。それと同時にとても耐えがたいような感情が胸の中に渦巻いていた。もう、こんな感情はどこにも必要ないのだと、心のどこかで感じていた。

次の日からまた元の通りに戻った。酒を飲み、何かの音を浴びながら気絶するように眠る。それが落ち着いて夜を閉じることができる唯一の手段だと、もう気づいてしまっているのだ。
もう自分の頭で何も考えたくはないと、体が叫んでいるのかもしれない。思えば、いつからか身をかきむしるような衝動は失われてしまった。誰かに気づいてほしいと叫びたくなることはなくなってしまった。これが大人になることなのかもしれないし、単に眠れない病気の副産物なだけかもしれない。

結局のところ、夜、ひとりで眠るのが怖いのだ。ひとりで自分と向き合うのが怖くて仕方がないのだ。だって見なくていいものも見えてしまうだろうから。

また僕は動画を流して、気を紛らわしながら眠りに堕ちるのだろう。きっとその誘惑はタナトスのそれと少しだけ似ている。