黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

記録することでしか平常を保てないのかもしれない

片付けと文章を書くことは似ている、と思う。

「整理」という側面でもそうだが、「やらなければいけないこと」があるときに限って無性にしたくなるところが何より似ている。何事にも完璧を求めがちな作業中において、とっ散らかった状態というのはなにがしかのストレスになるということなのだろう。だからここ数年、片付けや書くことを欲しなかったのは、自発的に「やらなければいけないこと」があまりなかったとも言える。

社会というこの集合体は面白いもので、会社員になってしまえば、どんなモチベーションであってもある程度の平穏は確保される。
やる気があろうとも、なかろうとも、ベルトコンベアに乗せられたが如く、それなりの速度で日常は進んでいくのだ。
それは麻薬のようなもので、一度ぬるま湯のような感覚に慣れてしまうと、どんどんと何も考えなくなる。
もちろんその中でも高いモチベーションを持って進んでいく人もいるのだろうけれど、僕の場合はあらゆることに対する欲求は減っていた。おそらく安寧な日常が目的地だった故に、それに対する耐性がなかったのだと思う。

夢や目標というものは熱望すればしただけ、達したあとの色褪せ方というのも大きい。成功はあくまでその瞬間の状態に過ぎず、未来永劫続くものではないからだ。
一度の成功は入り口に過ぎず、その状態を維持するためには熱量を維持し続けなければいけない。その事実に気づいた時に、多くの人はある種の絶望感に襲われるのではないのだろうか。だってそんな賽の河原みたいな話はないでしょう。人生が修行だなんてそんなのはあんまりだと。
安寧な日常がもたらす快楽に気づくのだ。朝起きて、仕事を流して、食事をして、夜眠る。誰にも侵されることのない平和な暮らし。真綿のようにゆっくりと毒を染み込ませるかのようにあらゆる好奇心が死んでいく。いつもそのことを思うたびにタナトスという言葉を思い出す。そして少しだけ怖くなる。

だから何かを書かなければいけないと思ったのかもしれない。
一見平穏に見える日常と溢れかえった娯楽、そして些細なことで満たされる承認欲求に甘えている自分に気づく瞬間を減らすために。そう、これはただ自分を保つための儀式に過ぎない。
散らかった部屋を見て、整理をしなければいけないと感じるように、無為に流れていきがちな日々の記録を残すことで、そこに歯止めをかけたくなったのだろう。
甘えから逃げることはできない。だからこそ、適度な距離感を保つために規則を求めるのかもしれない。