黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

とある11月のこと

胃がキシキシと痛む。数年前に過労で声が出なくなった時も、こんな感じだったことを覚えている。目の奥がずんと重たい感覚。
追われていた作業が少しだけ落ち着いて、体の声を聞くことができるようになったのもあるのだろう。アドレナリンが出ていると、どうも感覚に鈍くなって、すぐに限界を超えてしまう。気持ちに未だハリはあるが、ここらで一旦休憩するのがいいのだろうと、家に常備してある漢方薬を口にした。

今月はブレーキが壊れてしまったかのように、延々と仕事をしていた。所々で休んではいたのだろうけれど、あまり記憶にないのは、体の自己防衛本能に近い何かが影響しているに違いない。いつだって、記憶は自分にとって都合の良いものだ。だから今となっては、どれほどの仕事をしたのかも、数週間前の彼が何を思い、何を考えていたかも、想像するほかない。たぶん、僕はいつだって、自分のことを他人のようだと思っている。心も身体もいつだって思い通りにはいかない。

こうした考え方はあまりふつうではないらしい。多くの人は自分のことを自分のものだと思っているし、完全に自分でコントロールすることができるとすら考えている。それが可能なのだとしたら、驚くほどすごいことだ。おそらく彼らは自分を律する力がものすごくつよいのだろう。あらゆる誘惑に弱い僕から見たらバケモノのように見えてしまう。社会人になってから、一生懸命真似をしてみたけれど、ちっともうまくいかない。まるで油の切れたロボットがギシギシと音を立てて、ぎこちない動きをしているような感覚。やらなければいけないことや、あるべき自分の姿の幻影が、重りとなって体をどんどんと不自由にしていく。お酒を飲んだ瞬間にだけ体が自由になったような感じがして、ずっと酩酊していられるのならどんなにいいのになあと思っていた。

書くことすら苦しいと思うようになったのは、いつからだろう。はじめたばかりの頃は、自分と世界を接続する唯一の手段だったのに、いつしか思い通りにならない言葉たちを手放すようになっていた。楽しかったはずという記憶の残り香に誘われた、ただの亡霊。こんなはずじゃないのに、と手が動かない自分を無理やり奮い立たせては、力を振り絞って書く。ライターとして、働くようになってからはなおさらのことそうで、自己も自我も失って身体もまともに動かない中で、筆を動かしていたのは取材者への感謝と、締め切りに対する義務感、そして期限を守れなかった罪悪感。たぶんこの半年間ずっとそうだった。

つい一週間前の仕事も初めはそうだった。どうしても書きたいのだと、周りに無理を言って受けた仕事だった。そして、3時間に及ぶインタビューを書き起こした後のある種の絶望感。自分が大切にしたいテーマだからこそ、本当に書ききれることができるのだろうか、という不安。上手く機能しない両手を無理やりに動かす。原稿を書きはじめるときはいつだって苦しい。
心境の変化が訪れたのは、5割ほど終わったころのことだろうか。あれほどまでに重かった身体が少しだけ軽くなった気がした。おそらく重なる徹夜作業によって身体中に溢れたアドレナリンの影響もあるだろう。しかし、それ以上に自分の書いている文章の終わりが見たい衝動に駆られていた。少しだけワクワクするような感覚。この感覚は久しぶりのものだった。

そのときに、ああ、そうかと思った。

たぶん僕は文章を書くこと以上に、自分の書いた文章を読みたかったのだ。

だからこそ、自分が書いた文章が取るに足らないものであることがずっと許せなかった。もちろん、その結果いい記事になったものもあるだろう。しかし、その一方でどこか自分のものでないような感覚も覚えていた。かたく気持ちを閉ざされた文章を読んだときの息苦しさ。そうした自分を見ることがまた苦しくもあった。だからもしかしたら10年以上も悩んでいたことは、至極単純なことだったのかもしれない。

原稿の最後の一文を書き上げたのは、当初の締め切りからは4日ほど過ぎたころだった。
編集者に送ったあとで読み返した文章は驚くほど稚拙で、だけれどどこか安心感のあるものだった。

そう。僕はこれが読みたかったのだ。

窓の外を見上げた。秋の空は高く、遠くまで広がっている。
だいじょうぶ。きっとまだ書き続けられるから。