黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

断片、収束、そして集散

久しぶりに気分が高ぶっている。なぜだろう。久しぶりに人と会って話したからだろうか。
体は眠りたいと言っているのに、頭は妙に冴えてうまく眠れない。見たくもないスマホの画面を開いては閉じるを繰り返す。こういう時は目を閉じて深呼吸をすれば、少しは落ち着くということを理解はしているけれど、いざその場に当たると困ったなあで終わってしまう。知識がいくらあったとしても、有効活用できない瞬間が往往にして訪れる。

結局のところ、手元にある酒をもち、言葉をつづり始める。そういえば数年前、夜眠れない時もこうして酒を煽りながら文章を書いていた。モヤモヤとした感情が溢れてしかたのないときは、どこかに文章を書くことで溜飲を下げていたように思う。実態のない「悩み」は書き出してしまうと、思いのほか小さい。文章として、整列させればなおのこと、矮小化されるもので、こうして何かを書くことで心の平穏を保っていたように思う。だから僕にとって、掃除と文章を書くことはすごく似ている。もっとも掃除は本当にできない人なのだけれど。

「王様の耳はロバの耳」
まさしくこの場所がそうなりつつある。自分で深く掘った穴に、愚痴やら何やらを書き込んでいるようなそんな感覚。それでいて、こうしてその文章を公開しているのは、どこか遠くの誰かに見ていてほしいという願望があるということだ。矛盾に満ちているようで、それがまた美しいように感じてしまうのはエゴなのだろうか。意味のないものこそ、美しいという言葉が頭の中にリフレインする。断片的な思考が突如として収束していくこの感覚は嫌いではない。ある意味、酔っている時の特権だ。

効率的なものに対する嫌悪感は、美意識の現れであってほしいと願う。機能美ということはそれ自体の構造として全く美しくない。意味や目的ばかりに囚われたものは、時としてそれ以上の価値を持つべきではないと思う。ある種の清貧思想に似ている。そうした価値観の上でも生活は続いていく。価値のあるものを生み出し続けなければいけない人間というのは、本当に業の深い生き物だと思う。意味のないものこそが美だったはずなのに、美それ自体が価値となりうる。その矛盾に表現者は常に苦しむことだろう。価値づけられることはまるで麻薬のようで、次第に価値のある美という答えのない迷路の中へと迷い込んでいく。

言葉は本当に自家中毒を起こしやすいものだ。必死に紡ぎ出した言葉は、不自由な文脈によって様々な誤謬を生み出し、言葉を発した自身でさえも、誤謬に巻き込まれていく。初めて発せられた言葉と、未来永劫同じ意味を持つものなどは存在しない。意味というのは、一見強固に見える一方で、簡単にその姿を変える。
その一方で、人間は言葉の生き物だから、自らの言葉に巻き込まれて、自重によって身動きが取れなくなる。ある種の責任は簡単に人間を不自由にする。

そもそも自由というものは何なのか。その言葉の響きに人は常に酔いしれているけれど、自由を扱い切れる人間自体はおそらく皆無だ。不自由に対する対義語に過ぎないと考えれば、非常にわかりやすいが、それ自体は虚無に近い言葉なのではないか、と最近思う。このような概念自体が浮遊している言葉が多いのにも関わらず、使っている本人たちはあまりに無自覚だ。日本語の性質ゆえなのだろうか、コミュニケーションはかくも難しい。言葉の定義は人によって必ず異なるわけでそう考えると、永遠に人と人は分かり合えることはない。だからコミュニケーションを取るわけだが、そのことを理解している人はあまりに少ない。こんなことを考えているから、人との交流がどんどんと面倒になっていく。

誰かと分かり合えた瞬間は本当に恍惚に近い感覚で、それゆえに幻想だ。だからこそ、奇跡という言葉を使ってもいいとすら思う。どんなに儚いもので、それがもし一方的な感情であったとしても、断絶を理解した人間にとって救いになることは間違いない。そうした意味では言語という不自由なツールを使い続けることが人間が生きる意味であるということのようにも思う。

なぜかって?

十全な答えがあるのだとしたら、それほどつまらないことってないのだから。単純にそれだけの話なんじゃないかな。