黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

仕事と恋愛はどうやら似ているものらしい

「仕事と私、どっちが大事なの」
というのはよく聞くはなし。

総じて女性側がよく言うフレーズらしい。
基本的にこの場合の解答としては「あなた」が正解のようだ。

というのも、実際の優先度を聞いているわけではなく、ないがしろにされているという危機感から出るというサインにすぎないわけででこれを馬鹿正直に「どっちも大事だよ」とか「食っていくためには仕事が必要だからね」などと言おうものなら、大変な事態になってしまうようだ。完全に他人事で伝聞系なのは、幸か不幸かこのフレーズを一度も実際に言われたことがないからである。ある意味、男冥利に尽きるものだとは思うけれど、そのような場面には絶対に直面したくないので、複雑な心境である。

このフレーズが指し示すように、「仕事」と「恋愛」というのは人生の命題と解釈されることが多い。どちらも、経験がないと人間として不十分のように見られがちである。「無職」といえば、犯罪者のように扱われてしまいかねないし、「童貞」といえばコミュニケーション障害かのように扱われる(「処女」に関しては正直なところ、わからないが)。これらは人間が生きていくうえで不可欠なものと考えられ、全ての人間がまず間違いなく経験しているだろうと認識をされている。
これはかつて「一億総中流時代」と呼ばれた際に、格差を減らすことが良しとされ、「会社員となって、幸せな家庭を築く」ということが国民の命題とされたためと想定される。そのために様々な制度があり、「終身雇用制度」や「お見合い」など、あらゆる人間がそうした枠組みに当てはまるようにされたのである。

しかしバブル崩壊によって、そうした旧来のシステムが崩壊していき、アメリカ型の新自由主義なるものが日本にも普及し、「終身雇用」という概念は緩やかに消えていく*1。そうした90年代にはさまざまな社会不安が増大し、教育においても様々な変革がもたらされ、旧来のような枠にはめ込むものよりも、個性を重視した教育がなされるようになる。こうした教育は「ちゃんとした大人」になるよりも、「人とは違う自分」を目指すことになり、自意識の増大を促すものであった。そうした傾向は「周りの中の自分」というような客観性を失わせ、「自分は何にでもなれる」という安易な憧れを肥大化させた。これらは価値観の多様化を生むかのように思えるが、決してそうはならなかった。マスメディアは当然、華やかな世界での様々な欲望を指し示すわけで、それらは彼らの自意識に強く作用する。そう、彼らは「何にでもなれる」のである。そしてまた自由競争社会においては、欲望はよりシンプルとなる。金銭、地位、名誉と言ったものはおそらく誰にでもつかめるように感じられるのだ。いわゆる「アメリカンドリーム」である。そうした中での自由競争は当然、寡占化が著しいものとなる。それは就職活動や大学進学に収まらず、自由恋愛にさえ、そうした傾向は色濃くなるわけだ。

そうした事情は結婚にも関係していく。かつて結婚といえば、多くは政略結婚をはじめとし、家と家の間を取り持つものだったと言われる。
そもそも個人というのは日本の社会には存在しなかった概念である。人間は家や集落のような、ある共同体の一部として、それを生きながらえさせることが目的のものでしかなかったため、後継ぎを作るために結婚をする際には両親をはじめとした親族が手配したと言われている。しかし、それが核家族化により旧来の共同体が消滅し、さらに都市への若年層人口の集中も相まって、いわゆる「お見合い」という文化は極端に減っていった。こちらも「恋愛」という名の自由競争化が始まり、極端な自意識の増大化も相まって、寡占化が露見することとなった。

いささか長くなってしまったが、一言でいうのであれば、自由競争が極端になったことにより、あらゆることが寡占化してしまったということである。
そして、そうした中で最も顕著になったのが「仕事」と「恋愛」の二つだ。

そもそもこの二つは構造が非常に似ている。
どちらもある種の契約なのである。仕事に関してはまぎれもなくその通りなのだけれど、恋愛に関しても正式な契約は行わないにせよ、暗黙の了解でそれが存在しており、だからこそ浮気という概念が生まれる。結婚になれば、正式な契約となるわけだから言うまでもない。
そして、それらの契約は、かつてはともに共同体の中に入り、その中で忠誠を誓うものだった。結婚はその家の中に入ることだったし、仕事につくことは、その会社の中で一生をすごし、それらと運命を共にするということだった。そして、自由競争化の波に乗って、それらの価値観が共に失われ、「非正規」や「未婚」といった社会問題になっていく。これらは共に集団主義から個人主義への変化を顕著に表している。かつては与えられていたものが、今は自分の手で探し、掴み取らなくてはいけないのだ。しかし、彼らにそれを教える術の持つ人間はほとんどいない。それは彼らの上の世代が与えられてきた世代だからということに他ならない。つまり、こうした歪みは時代の変化の流れの中にいるからともいえる。

こうして個人主義の社会になってきてしまった以上、戻ることはできない。これからはおそらくどんどんとそうした社会問題が増えてくることが想定できる。どこかでそれに抑止力がかかるとは考えているが、それはおそらく随分先の話になるだろう。そうした中で、それに応じた社会制度が生まれることが理想ではあるが、それは非常に難しい。しかし、目先の安定を求めてかつての集団主義に足を踏み込むこともまたリスクを伴うことなのである。なぜならどんな大きな会社でも潰れてしまうし、離婚なんてもはやありふれている。求められているのは集団主義の中にいながらも個人を主張するというとても高度なことだ。しかしそれを自ら探りだし、次世代につなぐのが我々の責務なのである。


P.S.
そもそも、この文章を書くきっかけが
女性と話す際に、「いい人って絶対彼氏がいるんだよね」という話をよく聞いていて、それって「出来るのに働いてない人ってあんまりいない」のに似ているよなあ、って考えたことからだった。
だから、そういうライトな話をさくっと書こうと思ったら、なんかものすごく硬くなってしまって、こちらとしても非常に困惑している。これでは完全に社会学の授業のレポートではないか。
硬い文章を書きなれていないのに加えて、社会的な背景をあまり詳しく知らないため、読む人が読めば、完全に噴飯ものなのではないかと想定される。仮定自体は悪くはなさそうなので、誰かこれで書き直してくれないかなあ、と考えてる次第である。