黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

中学受験の頃のおはなし

2月といえば、受験シーズンである。
朝、電車に乗れば小学生から浪人生まで様々な受験生と思しき人がいる。
とくに僕の最寄駅にも学校がたくさんあるので、
それらしき人を見かけることが多かった。

自分にもこういうときがあって、それももうはるか昔の出来事になりつつあると
思うといささか悲しいものである。
せっかくだからその中でも最も遠くなった受験の話でもしようと思う。

小学校6年生のときである。
地元の小学校は土着の人が多かったからか、受験組が少なくて、
切迫した空気も特になく、数多くはのほほんとしていた。

そんな中でも数少ない受験生は精神を崩したのか、
はたまた体調管理を優先したのか、
年明けごろから休みがちになっていることが多かった。
僕はというと、どちらかというと非受験組に混じって
休み時間になると、風邪をひくこともいとわずに外で
キックベースやら何やらをしていたように思う。
そんなナーバスになることもないのになあ、
学校に来る方がよっぽどストレス解消になるのに、
なんて呑気なことを思っていたような気がする。

受験当日は母親と二人で大体向かっていた。
塾の友人たちは親を介さず、当人たちだけで待ち合わせしていたようで、
顔を合わせると、なんとなく恥ずかしいような気分になり、
母を邪険に扱ったようなことを覚えている。

2月に入り、いわゆる本命校受験が始まると、
各自受ける学校が異なってくるわけで、
そういった無駄な罪悪感を覚えることもなかった。

1日の朝、学校に母と別れ、学校に降り立つ。
受験番号はたしか229番で、ニンニクと語呂を取って覚えていた。
二階に上がって、角の教室に入り、きょろきょろと周りを見増しているけれど、
空いている席はない。開始10分前の出来事である。
あれっと思い、教室の番号を見ると、全然違う番号である。
ここで僕は自分の番号を292と勘違いしていることに気が付いた。
ニンニクどこ行った。
慌てて、その教室にいた監督の先生にそのことを告げ、
席に着いた頃にはすでにテスト用紙が配られた後であった。

出来はまあまあだった。というか模試なんかよりもよくできていたと思う。
思わぬトラブルのおかげでいい具合に緊張が解けていたのかもしれない。

2日後、合格発表に向かうと発表の数時間前だというのに、
駅には大勢の家族がおり、学校の方に歩き出していた。
あまりにも早くつきすぎてしまったもので、
仕方がないから家族と近くの定食屋で食事を取ってのんびりとすることにした。
よく言う話だけれど、本人よりも母親の方が浮足立っていたような気がする。
発表にはまだ時間があったけれど、なんとなく浮ついた空気だったこともあってか、
食事の後、すぐにその店を出た。

学校に着くと、まだ発表予定の時間ではなかったが、
すでに番号が並べられていた。
僕は一回番号を間違えたこともあってか、
229番だということははっきりと覚えている。すぐに自分の番号を見つけた。
「あった」とかなんかまあそういうそっけない言葉だった気がする。
どちらかというと、自分の合格不合格に対するよりも、
周りのあまりにもな感情の示し方に興味が向いていた。
母子抱き合って、涙するもの。歯を食いしばり涙を流す子供と慰める両親。
なんというか、よくわからないものに対するぼんやりとした違和感が存在していた。
帰り道、世話になった塾に報告をした後、
父とそのようなことを話していると、向かいからよく見知った顔が歩いてくる。
塾の別動隊である。わざわざ見に来てくれたのである。
直前に別の講師に煽られたのと、いたずら心もあってか、
がっかりした顔をして、「まあ」みたいな感じのことを伝えた。
嘘はつかなかったけれど、嘘を吐いたようなものである。
講師たちは何とも言えない顔をして励ましてくれた。
数時間後に死ぬほど怒られたのは内緒である。

ちなみにそのあとにもう一校受けた。
もうモチベーションも残っていなかったため、
鉛筆を転がして、選択肢を選んでいたわけだが、なぜか合格してしまう。
乗ってるときは何をしてもうまくいくというか、
無駄な運を使ってしまったというか、なんというか複雑な気持ちである。

その後、合格体験記なるものに、したり顔で
やったぜ的な文章を書いたところ、講師からのコメントでぼろくそに叩かれた。
その冊子で講師にたたかれたのは後にも先にもなかったと聞く。
というか数年後その塾潰れたらしいんだけど。

とまあ若くして、
ちょっとした成功体験を得てしまった僕は
えらく図に乗った挙句、周りの才能にぼこぼこに叩きのめされ、
不貞腐れて、高校卒業までのほぼ6年間底辺を突っ走ることになるわけだが、
それはまた別の話。機会があればまた今度。