黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

伝えようとするのは生きていたいからなのかもしれない

窓の外は秋晴れの高い空だ。
連休を謳歌する人たちにとって、さぞかし素晴らしい日々になったことだろう。たとえほとんどの時間を部屋で過ごすのだとしても、高く透き通った空を見ているのは心地の良いものだ。

ここ数日は貪るように眠りにしがみついていた。張り詰めていた気持ちが少しだけ落ち着いたこともあるのだろう。今朝は久しぶりに穏やかな気持ちで目覚めることができた。健やかな気持ちで眠りに就くことが出来た証拠だ。
連休中に収めてしまいたい仕事がまだまだ残ってはいるけれど、それは後ほどの自分が頑張ってくれるだろう。そんな冗談も鼻歌交じりに頭をよぎるくらいには気分が良い。

そんな気持ちも手伝ってか、少しだけ散歩でもしようかと思いついた。決して家で全く仕事に手がつかない自分に苛ついたわけでは、ない。
日常を過ごしていると、忘れてしまいがちだけど、歩くということはとても大切なことだ。流れていく景色を眺めながら、ぼんやりと思考に身を寄せる行為だと僕は考えている。車でも電車でも景色は流れていくけれど、その速度の違いは思考の深度に関わってくるように思う。

近所の商店街には健やかな顔をした人たちがぶらついている。平日の都心ではあまり見ることのできない光景だなと思う。地下鉄の駅の中、あるいはビルの合間を急ぎ足で進む人のほとんどは何かを迫られているような顔をしている。たまに垣間見える笑顔も、どこか役柄を演じているかのよう。人間の進む速度というのは少なからず、精神状態にも影響しているのかもしれない。身の程を知るという言葉があるが、人の身体一つで進めないところまで、よくもまあきたものだ。今の僕らが扱っている速度は人間には過ぎたるものなのかもしれない。

肉体的な話だけでなく、情報の速度も、そして量も膨大なものだ。金属製の小さな箱を開けば、いまや人間が本来一生で消化できる量を大いに超えた量の知識を得ることができる。10年ほど前には、まばらな人しかいなかったネットの海も、今となっては人でごった返した行楽中の海水浴場のようだ。
誰が言ったか、「今の時代は情報を得たい人よりも、発信したい人の方が多い」という言葉があるが、そのとおりに個々人が自分の主張を高々と掲げることとなった。その姿はまるで、自分の存在を主張するために声を上げて泣く赤ん坊のようだと思う。
公共交通機関が整備され、産業は多くの分野で分業化がなされた結果、人間は身体を動かすことが極端に減った。肉体的に本能が満たされることがない中で、自分の不確かな存在を確かめるためには、誰かに自分の存在を認識され、承認されることが必要なのだろう。

葬式は本人のためのものでなく、故人の周りの人のためだということを聞いたことがある。それは、その人が確かにいなくなったのだと認識するための儀式、だと。その存在が完全に記憶からなくなったときに、確かに人は死ぬのだと。
だから生きているという実感を得るために、人は誰かに存在を認識され、理解してもらいたいと願う。生きたいと願うがゆえに人は自身の想いを発信するのだ。溢れだす情報の束は、生きている実感を得られていない人が生きたいと願う声のかたまり。そう思うと、とても素晴らしいことのようにも感じられる。

僕がここで言葉を綴り続けるのもある種の存在証明だ。多くの人の目の届く場所ではないではないからこそ、意味があると思っている。
だって多くの人が賞賛するような言葉なんて、正しさの波に押しつぶされてしまうのだから。