黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

甘いものを食べながら飲むビールは最高

晩酌のために買うおつまみは基本的にしょっぱいもの、というか基本的におせんべいなのだけれど、ちょっとしたアクセントとして甘いものをつまみに発泡酒を飲んだらこれがまたおいしくて驚いた。しかし夜中に飲む酒と甘いものというのは美容はもちろん健康にも最悪なのだけれど、だからこそおいしいと感じてしまうのかもしれない。この感動が、本当に酒と甘いもののマッチングによるものなのか、想定していない組み合わせによる驚きなのか、ただ単に甘いものを食べながら酔っぱらう行為に恍惚を覚えたからなのかは知らない。単純に別物として食べたほうがよいという説もあるが、そちらに関しても特に触れる気もない。
あまりにもタイトルの語呂がよかったから、勢いで書きだしたはいいものの、あまり書くことがない。僕は基本的に書き始めたら勢いでどんなネタでも書けるものだと思っていたのだけど、意外とそうでもないらしい。むしろトピックを決めると話題に困ってしまう節すらある。一つのことを書き続けるというのは存外難しいものだ。だからこうして話をずらしてそらしてごまかしている。そもそも会話というのがそういうもので常にトピックというのは揺れ動いている。女性の会話なんて聞いていると面白いもので、3分経ったら、元の話題がなんだったのかわからなくなることなんてしばしば。そういえば、というのは魔法の言葉だと個人的には思っている。しかし会話において、ポイントがぶれていくのはお互いの思惑諸々があるわけだから、まあわからないでもないが、どうして一人でダラダラと書いていく中で、話題がコロコロ変わるのかと言うと、それは単純にマジカルバナナ的な現象だと思われる。マジカルバナナと言って、わかる人が正直なところ、どの程度いるのかわからなくて、これがジェネレーションギャップかと一人で腑に落ちてしまったのだけれど、一応わからない人のために説明すると、連想ゲームである。たとえば、バナナと言って連想できるのは黄色で、黄色からピカチューという風にどんどんと言葉をつないでいく。これと同じことが頭の中で起こっているのである。人それぞれ言葉にはイメージを持っていて、それが移り変わっていく。そして飛躍することもあって、バナナから黄色、黄色からピカチュー、ピカチューからポケモンとなっていくわけだが、これがバナナからピカチューに飛んで行ってしまうことがあるわけで、大抵そういう人は電波だとかなんとか言われて悲しそうなことになってしまうわけだ。逆に言うなら、その連想ゲームさえ、上手くできれば会話やらなにやらはうまくいくわけで、以前wikipediaを見ながら会話をしたことがあったけれど、リンクを飛んで飛んでとどんどん話題が切り替わっていくからキリがなくて困ってしまった。会話の続かない男性同士には結構おすすめである。という風に3分経って元の会話がわからない女性のように冒頭の書き出しからはてんで想像もつかない内容になってしまった。こういう文章はテンポはいいものの、脈絡がないから、読みやすいという風に感じる人もいれば、悪文だとわめきたてる人もいる。これは文章に対する考え方の違いだから、もはや分かりあうことはできないだろう。好みだからほっとけばいいのである。
このように段落を変えれば、文章の転換ができて、好ましい感じがするのだけれど、卑怯なように思えてしまうし、それこそ脈略がないから読み手は困ってしまうだろう。爆発オチとか夢オチが嫌われるのはこうした経緯からだと思われる。ともすれば、僕もそのようなことはしないようにと思っているのだけれど、そのしょーもなさが返っていとおしく思えることもあるのではないか、と都合の良いことを考えるわけで、それも酸いも甘いも噛みしめた大人だからこその深みだと思われる。何が言いたかったのかと言うと、上手いことまとめようとして失敗したというだけの話だ。落語家ってすごいよね。

バイオリズムには従っておこう

大体月に一回くらい、体調が悪い時と無性にイライラして仕方がないときがある。その二つは微妙にリンクしていなくて、それもまた腹立たしい話だ。というわけで今日は非常にイラついている日だ。昔はイラついているとすぐ周りにあたってしまうような非常に扱いづらい人間だったものの、そこは大人である。ひた隠しにした結果、部屋の中でぐったりしている。怒るエネルギーの消耗を抑えているのである。省エネだ。しかし鬱々としていても健康によくないわけで、さっさと寝てしまうのがよいのだろうけれど、せっかくだからとここに愚痴らしきものを書き散らかしているわけである。ここ数日のフラストレーションの原因としては、文章がスムーズに書けなくなったことが一番の原因だ。基本的なロジックは持っているものの、割とその場の勢いで書いてしまうタイプだから、書けなくなってしまうとなぜ手が動かないのかがわからなくなる。よく野球選手がフォームを崩すと何がおかしくなったのかわからなくなったというが完全にそれである。思えば、この最近は文章も書きなぐっていてばかりだったし、更新も滞っていたから、余計におかしくなったのかもしれない。経験則的には中途半端な間隔が一番調子を崩しやすくて、間を空けるのであれば、もうそれは結構なスパンで空けた方がガラッと気持ちも変わるから、良くなっていたりする。それに比べて、何かおかしいなあと思いながらやっていると、どんどんとおかしな方向に向かうデフレスパイラル的な何かに陥りやすい。これに関しては非常にわかりやすくて、かつての自分を成功モデルとすると、かつてできていたはずのことができないという焦りやいらだちというのがパフォーマンスの低下につながるわけだ。おそらくうつ病などの精神疾患に関しても同じようなことが起きていて、健全であろうとふるまおうとすることで、無理をしやすくなってしまう。取り戻す戦いというのは非常にしんどいものだ。半端な根拠のある自信は厄介極まりないものである。この理論、割と的を射ていると思っていて、大抵落ちてしまった人というのはかつての自分に戻ろうと必死にあがいてしまう。挫折然り、けが然り、病気然り。当然のことながら、人というのは常時変化しているもので、かつてと同じ自分はあり得ない。成長にせよ、老化にせよ、以前とは違う自分というのを常に受け入れていかなければ、どこかに無理が生じてしまうものなのだ。それは体のことだけではなく、周りの環境ももちろんそうで、常に変質していく環境というのを受け入れていかなければいけないわけなのだけれど、地面がゆらゆらしていると、自分の不確かさが露わになってしまうから、それをひた隠しにするために、多くの人がその地平の頑強さを示そうと頑張るわけだ。まあ、そうやって不確かに思えるものに身を任せるものというのは非常に怖いわけで、ともすれば自分の感情と思しきものにすら抗うわけである。こうしてイライラを抑えきれないままに書きなぐっている愚か者がここにいるように。もう自分でも何を書いているのかわからなくなっているくらいなのだから、冷静な僕は早く書くのをやめればいいのに、と頭の隅でずっとつぶやいている。

行動と思念

週末を利用して一人旅に向かった。そのレポートみたいのも書ければとは思っているが、実際にどうなるかはわからない。本来なら帰ってきたタイミングですらっと書くのが好ましいものだとは思うのだが、まとまらなかったので仕方がない。昔からどうもこの手のレポートやら何やらの事実を刻銘に書くということが得意ではないのである。だから日記を書いたはいいものの、実際にその時何をやっていたかというのがはっきりとわからないというのが僕の日記の何点ではある。このようにネタを作るために動いたものの、いざ書こうとなると断念して、書きかけのものが下書きにたまっていくのである。
しかし、一人旅というのは久しぶりのことである。幸か不幸か複数人で向かう旅行が最近では増えており、楽しみ方も大きく異なるわけだ。まず第一に自由度の高さである。時間さえ融通が利くのであれば、いつ帰ってもどこに向かってもいい。多少の無理もできるということで、非常に気楽な旅となる。今回も旅券も宿も当日に取った。こんなことは責任を伴いがちなほかの人との旅ではすることができない。デメリットとしては感想の共有ができないため、向かった先のつまらなさ具合では非常にぐったりすることになる。基本的にそんなにひどいことにはならないので、これは忘れていい。あとはSNSに残念な書き込みをしがちなのもデメリットと言えばそうか。このあたり自分の中に収めておけない辺り、まだまだ未熟ものである。しかし、一人で知らない土地をふらふらと考えていると色々なことを考えてしまうわけで、そういう意味では一人旅に対して多くぶつけられるセンシティブすぎるとの意見も甚だ間違いではないだろう。ともあれ、今回はいろいろな作品を見る機会が多かったのだが、そうした思索も含めていろいろ考える所が多かった。そのあたりはまた次回があれば書こうと思う。中途半端な所ではあるけれど、きょうはひとまずここまで。

忍び寄る毒

わかりやすいもので、一度堕ちるとどんどんと怠惰になっていく。あれほどあった切迫感も今はなく、しれっと今の時間に書き始めている。完璧主義であればあるほど、堕ちるのは早いものだ。割と完璧主義の僕がここ数年で学んだことはそれだ。完璧なんてものはどこにもないわけで、せいぜいあるのは最大公約数のそれくらいだ。結局、理想と現実は異なるもので、いかに近づけるかという話でしかないから、そこの微妙な差異に苦しむようでは生きていくことは難しい。それは自己と他者の関係においても同じわけで、どこかで妥協しなければ何も始まらない。もう何度も同じようなことを書いていて、いささか恐縮だが、酔っ払いなんてこの程度のものだ。結局僕が周りに一生懸命伝えたいのはそこであって、他の話はそこからの派生に過ぎない。自分から遠いものはやはり魅力的に感じるものだ。とはいえ難しいのがあまりにも離れていると、拒絶反応が起きる。人間の内包できる容量というのは残念ながら限られている。僕個人としてはその領域はできる限り排除していきたいわけだが、そこに種としての限界はあるのだ。それでもなお求め続けてしまうのは、業でしかないのだろうか。

そういえば

3日ほどブログを書いていなかったのだけれど、特にさしたる影響はなかった。性格上一回気持ちが途切れてしまうと、それ以降もういいやとなってしまうものだと思っていたが、意外とそういうものでもないようだ。自分のことを分かった気になっていても意外とそうでもないものなのだと思う。週末前後は珍しくバタバタとしていて、ブログのことをすっかり忘れてしまっていた。思い出したのは土曜の明け方あたりのことで、日月も忙しかったからすんなり放置してしまった。こんな僕だからもし仕事を始めたとなれば、前のように不定期になることは想像に難くない。なぜこんなに続いているのかをを改めて考え直してみると、今の現状が退屈だからという他なくて、仕事が忙しすぎるのも嫌なのだろうけれど、張り合いがないのもまたそれはそれで面白くない、というまあよくあるやつだ。僕は世の中の仕事のほとんどを知らないけれど、基本的にはそんな都合の良いものなんてないし、僕の場合性格上ハマるととことんやってしまうから、勝手に忙しくなっているのだろうと思う。昔から忙しさと余暇のバランスがよくなるといいのになあとずっと思っていた。なぜかいつも予定は一か所に固まってきやがって、暇だったのが途端に忙しくなるものだから、高山病みたいになってしまう。まあ世の中にはカレンダーというものがある以上、大抵の人の忙しさは共有されているわけで、時としてそれに触れることがあるだけの話なのだろう。今は年度末も近くなってきて、多くの人が決算処理やら予算消化でてんやわんやになっているか、卒業前のばか騒ぎで楽しんでいることだろう。その空気だけでも味わうことができているのだから幸せなものだ。
3月の忙しさというのは何かの終わりの前のものだから、4月のそれに比べるととても情緒的だ。日本人が桜を好むのはそのはかなさゆえのものだという。ともすればこの3月の終わりの前の忙しさもある意味では美しいものなのだろう。

光に群がる虫みたいだね

大学のときはあんまりにも興味のある方向を向いてはちょろちょろしていたから、あるとき仲の良い講師の人に「虫みたいだよね」と言われたことがある。当時ですら全く言い得て妙だな、と思ったものだけれど、今の器用貧乏な近況を見るにつけ、本当に全く持ってその通りだと思う次第だ。好奇心は猫をも殺すというけれど、その当時の僕は殺されることもなく、ぼろぼろの今を見るにつけ、それはたぶん時間差で体を蝕む毒のようのものだと思う。
なぜ唐突にその話を思い出したのかと言うと、今日は新卒の就職活動の開始の日だったようで、あらゆるところでリクルートスーツが跋扈していた。高いところから見る、黒い服で無数に蠢きあうその光景はとてもグロテスクで、お菓子に群がるアリを彷彿とさせた。別に僕も就職活動は当然したし、その行為自体に特に思い入れはないけれど、集団で同じような格好をして、同じような行為をしているのを見るのはあまり好きではない。おそらくそれは僕が制服を着る経験がほとんどなかったのと、集団行動があんまり好きではないという理由に過ぎない。別にどんな集団であろうとも中にいる分には嫌悪感は感じないはずで、大抵そういうことを嫌がる人というのは外にいる人か、集団心理を嫌って外にいようとする人だけだ。そうした人たちは疎外感も合わさるから、余計に異様なものに見えることだろうと思う。
しかしそれは生物としてはある意味当たり前の行動で、孤立することは生存確率を低下させるなんてことはほとんどの人がわかっているはずなのに、なぜだかそういう風に感じてしまう。それはおそらく自分や他人が何かの塊の中の一部ではなく、完全に独立した一つの個体と考えているからだろう。知的生命体である以上、そう考えるのは仕方のないことなのかもしれないけれど、あらゆる人間主義が凋落しつつある今、そうした考え方というのは非常に難しいものだ。そもそもこれだって、理科の時間で食物連鎖やらなんやらで習ったはずなのに、気づけば自分がピラミッドの上にいることが前提になっていて、その中の人間同士のピラミッドでどう戦うか、ということしか考えていない。しかし所詮人間同士のピラミッドなんて、内輪もめの一つにすぎないわけで、俯瞰してみてしまえば、所詮小さな塊が蠢いているだけにすぎないのだ。中途半端な俯瞰なんて所詮は半端なニヒリズムにすぎなくて、やるなら徹底的にしてみれば、もしかしたら世界の深淵とやら見えるのかもしれない、なんて抹香臭いことを考えてしまう。

ギリギリじゃないとだめなのかもしれない

テスト前になると部屋の掃除をするようなそんな心境でブログに取り掛かってみた結果、物の見事に時間をつぶす。パソコンというのは何でも暇つぶしができるものでとても素晴らしい反面、欲望にあらがえないとこのように恐ろしいことになってしまう。ああ、なんてダメなんだ僕は、なんて悲劇のヒーローぶりたいところだけれど、全く持ってその通りなので、ぐうの音も出ない。1週間に1度はこのようなことが起きているわけで、これは締切が目前に迫らないと動かないという一般的なまじめ系クズというやつと言えなくもなかろう。基本的に早めに動くようにはしているのだが、その余裕があとで命取りとなり、ギリギリになりひいひいと言っている。希望としては毎回そうなっていないことで、年を取るたびにその頻度は減ってきた。逆に言えば追い込まれた状況には強いわけで、ツーストライクを取られても三振を取られないバッターがいやらしいと同じように、いつもギリギリだけど、そこで踏ん張れる人間というのは意外と重宝するのではないかと思うのだけれど、そういう状況にいると、僕の精神がボロボロになってしまうので避けたい。えてして望むものと望まれるものは異なるということだ。嫌いな人にモテても仕方ないのと同じで、望んでいないことを望まれるのは苦しいことなのかもしれない。もっとも望むことを望まれたことなんて一度としてないから、望まれたものを望んでいるの節はあるのだけど。