黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

ダイナマイトとソーシャルゲーム

戦争の話とかで、技術の進歩によって、人を殺す実感がなくなったという話があったけれど、実は同じようなことが起きている気がしていて、SNSなんかもそれと同じような形になっているんじゃないかなんて思う。この間炎上の話を書いたけれど、それ以降も定期的に炎上が続いていて、みんなどれだけストレス抱えてるんだよ、なんてのんきに考えていた。だけれど、よくよく考えてみたら、こんなことは身の回りにもいたるところで起きていて、それが実世界だけではなく、インターネットに持ち込まれただけであることに気づいた。だけれど、これは簡単に見えて以外に凶悪な代物で、せいぜい街とかクラスだった規模が一つの国ということで起こってしまう。つまりスケールが極端に大きくなってしまうわけだ。加えて、実際の行動を伴わないわけで、それはある種最初の一文のように武器の発展の経過と似ているように感じる。ダイナマイトが生産的な行動のために作られたにもかかわらず、人を殺す道具となったように、こうした電子世界もそういうものになりかけてしまっているのだろうなあ、と。傭兵の低年齢化、なんて話じゃないよね。まあ便利なものは危険なんだろうなあなどと思う。

などとひとまず思いついたので書きなぐってみた。早くパソコン戻ってこないだろうか。

パソコンがなくなるとなにも出来ないぼく

先日、私物のパソコンが盛大に壊れた。画面が真っ白になって、ピーピーなるばかり。すぐ治るものだと思っていたら、修理には一週間ほどかかるらしい。合掌。
仕方が無いから、こちらも修理を終えたばかりのアイフォーンを一日中ピコピコとやっている。画面が小さいから疲れるし、文字を打つのにも時間がかかるから、億劫で仕方が無いなあ、などと愚痴を吐きながらも今日も今日とてインターネットの海で溺れるほどの情報を浴びていた。
普段一日中パソコンを触っている時にはなにも気にならなかったことがこうして浮き彫りになってくるわけだ。一体僕は1日でどれほどの情報を貪っていたのだろう。
そして行動のほぼ全てをパソコンに依存していた僕は何一つとして生産的な行動ができなくなっていることに気づいてしまう。映像を作ることはおろか、文章を書いたり知的発散することすらパソコンがなければ満足にできない。こうしてどんどん先鋭化していったあとにあらゆる文明が失われたとしたら、どうなってしまうのだろう。
指先以外満足に動かなくなった体をへえこらと動かしてまた新しい技術に身を委ねるのだろうか。あるいはそれでもかつての栄華に思いを馳せ、いつか来るかもしれない復興を待ち続けるのだろうか。
それは意外と遠く無い未来に起こるのかもしれない、などと思ったりする。

「失敗」しなくなることで落胆はなくなるのではないか

はじめに

僕は昔から割と落ち込みやすい方で、ちょっとしたことですぐにへこむ。
幸いなことにひどい失恋などはしたことはないが、挫折は多い人間である。

個人的に、落ち込むことは感受性の表れだから悪いことではないと思うけれど、それがあんまりにも長引くと流石に支障が出てくる。
話すたびに愚痴を吐かれたりすれば周りの人も自然と距離を取ってしまうわけだ。
そうなると余計に落ち込んだり疑心暗鬼になってしまうわけで、完全に負のスパイラルに入ってしまう。できればその前にサクッと処理しておきたいもの。

かくいう僕も現在かなりへこんでいるわけで、それの気分転換としてこの記事を書いている。普段からこんなこと心掛ける必要もないけれど、底なし沼に沈められているような気持ちの人はこれを読んですっきりしてもらえればうれしく思うし、普段あまり落ち込まない人はこういう人もいるのか、と生暖かい目で見守りつつ、いわゆるメンヘラに対しての理解を深めてもらえれば幸いである。

なぜ落ち込んでしまうのか

もちろん人によっていろいろ理由はあるのだと思うが、個人的にがっかりしてしまうことを3つほどあげてみる。

  • 対価に対して、正当な報酬を得られない
    • 例)努力が報われない、など
  • 外的な原因で、できるはずのことができなくなってしまうこと
    • 例)金銭的な理由で進学できない、など
  • 昔出来たことができなくなってしまう
    • 例)体が思うように動かなくなった、など

経験がある人も少なくないのではないだろうか。
この3つに共通のこととして、自分の想定よりも結果が悪いということである。ざっくりいうと「こんなはずじゃなかった」状態ということだ。自己評価と結果とが大きく離れていることによって、どんな結果にしても「失敗」と認識してしまうことが落ち込みの大きな要因である。「成功」が自信をつけるように、「失敗」は自信を失わせる。その自信の喪失こそが落ち込みの大きな原因なのである。

「失敗」を認識しないことが落ち込まないための秘訣

今まで見てきた中で落ち込まないように見える人は少なからずいる。俗にいうタフな人というやつだ。

ただその中でも二通りタイプがあって、

  • 「失敗」を繰り返す人
  • 「失敗」を糧にできる人

といるわけだ。

落ち込まない人の共通点としては見出しに書いたように、「失敗」を「失敗」と思わないことなのだが、その捉え方が両者では大きく異なる。
「失敗」を繰り返す人というのは、文字通り「失敗」を認識せずになかったことにしてしまうわけである。要するに人の話を聞き流す能力の高い人だ。こういう類の人は怒られても気にもかけないので、確かに非常にタフである。

対して、後者は「失敗」をハナから計算に入れているのである。常に最悪の事態を想定して、リスクヘッジを行っているから、ちょっとした「失敗」ではあまり大きな動揺を伴わない。だからそういう事態が起こっても冷静に対処をして、被害を最小限に抑えることができるし、次のステップへもスムーズに進むことができる。

人間が追い込まれるのは選択肢がないと感じているときである。だから、選択肢を増やして保険をかけておくという考え方の後者は追い込まれづらいのだ。
しかし、こういう考え方は一朝一夕に身に着けられるものではないし、そもそもそれができているのであれば、最初からひどく落ち込むことなんてないのである。
僕もできないから落ち込んでいるわけで、じゃあ落ち込んだらどうすればいいのか、という話だ。

落ち込んだ時のための対処の仕方

何事においても時間が解決してくれるというけれど、やっぱり先の長い話だ。何をするのもだるくなって、家でゴロゴロしていたらどんどんと悩んで、落ち込んでしまう。
だからひとまずは体を動かしてみることだ。別に外に出かけるでもいいし、文字通り運動するでもいい。ひとまずそこから頭をそらしてみるのである。
その場凌ぎと言われてしまうかもしれないけれど、意外と重要なことで、悩んでいるうちというのはかなり感情的になってしまっているから、そこから一度目線を逸らすことで、その「失敗」を客観的事実として捉えることができるのである。
これはお葬式のときなどにもよく言われることだが、喪主は故人を悲しむ暇もなく、後始末に追われることで「死」というものを事実として認識するのだ。
だから、ひとまずはいったん目を逸らして、視野を広く持ってみたほうがいいだろう。

また体を動かすことによって、睡眠をきちんと取ることができるようになるから、規則正しい生活になっていく。健全なる精神は健全なる身体に宿ると言うが、まずは健康な生活を心がけることだ。一般に精神病と呼ばれるものの多くは脳内物質が適正に分泌されていないことから起こるものである。
「落ち込んだら、上手いもの食ってさっさと寝ろ」などと僕もよく言われたものだが、ひとまずはその助言を聞いて見るのも手なのではないだろうか。

おわりに

まあ、人間それなりに生きていれば「失敗」はつきものである。それで落ち込むのも当然のことだし、それでこそ人間らしいと思うわけだ。
古くからの物語の多くは「挫折からの復興」なのである。とはいえ、やっぱり一度転んでしまうとやっぱり起き上がるのは大変だし、その過程で歪んでしまうこともあるだろう。
だれでもそんなことをできるわけではないのだ。
だけれど、一度きりの「失敗」で絶望してしまうのは早いような気もするし、それで大きくこじらせてしまうのももったいないと思うわけだ。
だから、自戒も含めてこんな記事を書いてみた。

ひっくり返してしまうようでアレだけど、個人的にはたくさん失敗していっぱい落ち込んでしまえばいいと思うのだ。
だって、それは生きている以上逃げ切れないことなのだから。
だけれど、起き上がるのはこういった小手先の技術で意外とどうにかなる。
だからいっぱい転んで、いっぱい起き上がれれば、その分それっぽい人間になるんじゃないかなあ、って思ったりするわけです。
というわけでへこんだ人の気分転換になれば、何よりかな。

甘いものを食べながら飲むビールは最高

晩酌のために買うおつまみは基本的にしょっぱいもの、というか基本的におせんべいなのだけれど、ちょっとしたアクセントとして甘いものをつまみに発泡酒を飲んだらこれがまたおいしくて驚いた。しかし夜中に飲む酒と甘いものというのは美容はもちろん健康にも最悪なのだけれど、だからこそおいしいと感じてしまうのかもしれない。この感動が、本当に酒と甘いもののマッチングによるものなのか、想定していない組み合わせによる驚きなのか、ただ単に甘いものを食べながら酔っぱらう行為に恍惚を覚えたからなのかは知らない。単純に別物として食べたほうがよいという説もあるが、そちらに関しても特に触れる気もない。
あまりにもタイトルの語呂がよかったから、勢いで書きだしたはいいものの、あまり書くことがない。僕は基本的に書き始めたら勢いでどんなネタでも書けるものだと思っていたのだけど、意外とそうでもないらしい。むしろトピックを決めると話題に困ってしまう節すらある。一つのことを書き続けるというのは存外難しいものだ。だからこうして話をずらしてそらしてごまかしている。そもそも会話というのがそういうもので常にトピックというのは揺れ動いている。女性の会話なんて聞いていると面白いもので、3分経ったら、元の話題がなんだったのかわからなくなることなんてしばしば。そういえば、というのは魔法の言葉だと個人的には思っている。しかし会話において、ポイントがぶれていくのはお互いの思惑諸々があるわけだから、まあわからないでもないが、どうして一人でダラダラと書いていく中で、話題がコロコロ変わるのかと言うと、それは単純にマジカルバナナ的な現象だと思われる。マジカルバナナと言って、わかる人が正直なところ、どの程度いるのかわからなくて、これがジェネレーションギャップかと一人で腑に落ちてしまったのだけれど、一応わからない人のために説明すると、連想ゲームである。たとえば、バナナと言って連想できるのは黄色で、黄色からピカチューという風にどんどんと言葉をつないでいく。これと同じことが頭の中で起こっているのである。人それぞれ言葉にはイメージを持っていて、それが移り変わっていく。そして飛躍することもあって、バナナから黄色、黄色からピカチュー、ピカチューからポケモンとなっていくわけだが、これがバナナからピカチューに飛んで行ってしまうことがあるわけで、大抵そういう人は電波だとかなんとか言われて悲しそうなことになってしまうわけだ。逆に言うなら、その連想ゲームさえ、上手くできれば会話やらなにやらはうまくいくわけで、以前wikipediaを見ながら会話をしたことがあったけれど、リンクを飛んで飛んでとどんどん話題が切り替わっていくからキリがなくて困ってしまった。会話の続かない男性同士には結構おすすめである。という風に3分経って元の会話がわからない女性のように冒頭の書き出しからはてんで想像もつかない内容になってしまった。こういう文章はテンポはいいものの、脈絡がないから、読みやすいという風に感じる人もいれば、悪文だとわめきたてる人もいる。これは文章に対する考え方の違いだから、もはや分かりあうことはできないだろう。好みだからほっとけばいいのである。
このように段落を変えれば、文章の転換ができて、好ましい感じがするのだけれど、卑怯なように思えてしまうし、それこそ脈略がないから読み手は困ってしまうだろう。爆発オチとか夢オチが嫌われるのはこうした経緯からだと思われる。ともすれば、僕もそのようなことはしないようにと思っているのだけれど、そのしょーもなさが返っていとおしく思えることもあるのではないか、と都合の良いことを考えるわけで、それも酸いも甘いも噛みしめた大人だからこその深みだと思われる。何が言いたかったのかと言うと、上手いことまとめようとして失敗したというだけの話だ。落語家ってすごいよね。

バイオリズムには従っておこう

大体月に一回くらい、体調が悪い時と無性にイライラして仕方がないときがある。その二つは微妙にリンクしていなくて、それもまた腹立たしい話だ。というわけで今日は非常にイラついている日だ。昔はイラついているとすぐ周りにあたってしまうような非常に扱いづらい人間だったものの、そこは大人である。ひた隠しにした結果、部屋の中でぐったりしている。怒るエネルギーの消耗を抑えているのである。省エネだ。しかし鬱々としていても健康によくないわけで、さっさと寝てしまうのがよいのだろうけれど、せっかくだからとここに愚痴らしきものを書き散らかしているわけである。ここ数日のフラストレーションの原因としては、文章がスムーズに書けなくなったことが一番の原因だ。基本的なロジックは持っているものの、割とその場の勢いで書いてしまうタイプだから、書けなくなってしまうとなぜ手が動かないのかがわからなくなる。よく野球選手がフォームを崩すと何がおかしくなったのかわからなくなったというが完全にそれである。思えば、この最近は文章も書きなぐっていてばかりだったし、更新も滞っていたから、余計におかしくなったのかもしれない。経験則的には中途半端な間隔が一番調子を崩しやすくて、間を空けるのであれば、もうそれは結構なスパンで空けた方がガラッと気持ちも変わるから、良くなっていたりする。それに比べて、何かおかしいなあと思いながらやっていると、どんどんとおかしな方向に向かうデフレスパイラル的な何かに陥りやすい。これに関しては非常にわかりやすくて、かつての自分を成功モデルとすると、かつてできていたはずのことができないという焦りやいらだちというのがパフォーマンスの低下につながるわけだ。おそらくうつ病などの精神疾患に関しても同じようなことが起きていて、健全であろうとふるまおうとすることで、無理をしやすくなってしまう。取り戻す戦いというのは非常にしんどいものだ。半端な根拠のある自信は厄介極まりないものである。この理論、割と的を射ていると思っていて、大抵落ちてしまった人というのはかつての自分に戻ろうと必死にあがいてしまう。挫折然り、けが然り、病気然り。当然のことながら、人というのは常時変化しているもので、かつてと同じ自分はあり得ない。成長にせよ、老化にせよ、以前とは違う自分というのを常に受け入れていかなければ、どこかに無理が生じてしまうものなのだ。それは体のことだけではなく、周りの環境ももちろんそうで、常に変質していく環境というのを受け入れていかなければいけないわけなのだけれど、地面がゆらゆらしていると、自分の不確かさが露わになってしまうから、それをひた隠しにするために、多くの人がその地平の頑強さを示そうと頑張るわけだ。まあ、そうやって不確かに思えるものに身を任せるものというのは非常に怖いわけで、ともすれば自分の感情と思しきものにすら抗うわけである。こうしてイライラを抑えきれないままに書きなぐっている愚か者がここにいるように。もう自分でも何を書いているのかわからなくなっているくらいなのだから、冷静な僕は早く書くのをやめればいいのに、と頭の隅でずっとつぶやいている。

行動と思念

週末を利用して一人旅に向かった。そのレポートみたいのも書ければとは思っているが、実際にどうなるかはわからない。本来なら帰ってきたタイミングですらっと書くのが好ましいものだとは思うのだが、まとまらなかったので仕方がない。昔からどうもこの手のレポートやら何やらの事実を刻銘に書くということが得意ではないのである。だから日記を書いたはいいものの、実際にその時何をやっていたかというのがはっきりとわからないというのが僕の日記の何点ではある。このようにネタを作るために動いたものの、いざ書こうとなると断念して、書きかけのものが下書きにたまっていくのである。
しかし、一人旅というのは久しぶりのことである。幸か不幸か複数人で向かう旅行が最近では増えており、楽しみ方も大きく異なるわけだ。まず第一に自由度の高さである。時間さえ融通が利くのであれば、いつ帰ってもどこに向かってもいい。多少の無理もできるということで、非常に気楽な旅となる。今回も旅券も宿も当日に取った。こんなことは責任を伴いがちなほかの人との旅ではすることができない。デメリットとしては感想の共有ができないため、向かった先のつまらなさ具合では非常にぐったりすることになる。基本的にそんなにひどいことにはならないので、これは忘れていい。あとはSNSに残念な書き込みをしがちなのもデメリットと言えばそうか。このあたり自分の中に収めておけない辺り、まだまだ未熟ものである。しかし、一人で知らない土地をふらふらと考えていると色々なことを考えてしまうわけで、そういう意味では一人旅に対して多くぶつけられるセンシティブすぎるとの意見も甚だ間違いではないだろう。ともあれ、今回はいろいろな作品を見る機会が多かったのだが、そうした思索も含めていろいろ考える所が多かった。そのあたりはまた次回があれば書こうと思う。中途半端な所ではあるけれど、きょうはひとまずここまで。

忍び寄る毒

わかりやすいもので、一度堕ちるとどんどんと怠惰になっていく。あれほどあった切迫感も今はなく、しれっと今の時間に書き始めている。完璧主義であればあるほど、堕ちるのは早いものだ。割と完璧主義の僕がここ数年で学んだことはそれだ。完璧なんてものはどこにもないわけで、せいぜいあるのは最大公約数のそれくらいだ。結局、理想と現実は異なるもので、いかに近づけるかという話でしかないから、そこの微妙な差異に苦しむようでは生きていくことは難しい。それは自己と他者の関係においても同じわけで、どこかで妥協しなければ何も始まらない。もう何度も同じようなことを書いていて、いささか恐縮だが、酔っ払いなんてこの程度のものだ。結局僕が周りに一生懸命伝えたいのはそこであって、他の話はそこからの派生に過ぎない。自分から遠いものはやはり魅力的に感じるものだ。とはいえ難しいのがあまりにも離れていると、拒絶反応が起きる。人間の内包できる容量というのは残念ながら限られている。僕個人としてはその領域はできる限り排除していきたいわけだが、そこに種としての限界はあるのだ。それでもなお求め続けてしまうのは、業でしかないのだろうか。