黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

GW開始のお知らせ

GWと書くと即座にゴールデンウィークが想起されるのは素直にすごいなと思う。それだけ世間に定着しているということか。GWで表すほかの略語を考えてみてもさっぱり思いつかない。あまりにみんなが知っているからわざわざそういう表記をしないというのもあるだろう。
これに限らず大型連休となると、みんなが一斉に色めき立つ。やっぱり休みはうれしいだろうし、メディアのそうした戦略もあるだろうけれど、どこに行っても人が多くて疲れてしまいそうだ。別に言うほど人ごみは嫌いではないけれど、それにしたって、大渋滞や混雑具合を見ていると、みんな人ごみに行きたくて外に出かけているのか、と考えてしまうほどだ。確かに人がたくさんいるところに向かうとお祭り感があって楽しいのは事実である。閑散とした観光地に向かうと、休息としてはよいけれど、若干もの悲しさも覚えるものだ。その場所を堪能したかったり、のんびりと過ごしたいのであれば、時期をずらしていけばいいのだろうけれど、連休というのは活気を楽しんでいる側面もあるのだと思う。
僕も少し前までは、そういうのがあまり好きではなくて、わざわざ連休中にどこか行くとか馬鹿なんじゃないの、とか考えていたのだけれど、今ならその気持ちが何となくわからないでもない。人とずれてることに対して非日常を感じているのか、人と同じことをするのに非日常を感じるのか、という違いなのだろうと思う。そうした意味では大人になってきたということなのだろう。楽しむことに対して、とても素直になってきた。
とはいえ、今年はどこかに出かけるのかというとそういう予定もない。せいぜい混んでいる場所に物見遊山しに行く程度だろう。今の僕は休みなんていくらでもあるから、遊ばなければという切迫した感情はないからだと思う。とはいえ、外に遊びに行きたいという感覚はやっぱりあるから、人と同じことがしたいのだろうなあ。

久しぶりなので雑記

間が空いてしまうとどうも身構えてしまっていけない。なんとなく、久しぶりに友人に会う時の緊張感と似ているような感じがする。もう少し間が空いてしまえば、おのずと書きたくなるのだろうけれど、そこまで待っているのもなんとなく癪な話である。ここはなんでもいいから適当なことを書きなぐって、落ち込んだ気分を一掃したいものだ。
落ち込んだと言っても、そんなに難しい話ではなくて、単に周期の問題でしかないのである。大体、浮かれた後は緩やかに下っていく。特に最近は世間でいろいろあったようだから、なんとなく勝手に落ち込んでいた。別に周りの人は特に相変わらずという感じなのだけれど、テレビとか見ているとやっぱり大変そうで、こっちがのんびりとしているのが申し訳ない気持ちになってくる。こちらはこちらで普通に過ごすのがいいのはわかってはいるのだけれど、なんとなく動きづらい。そうしているうちに悶々として来てしまうもので、そういうときは体を動かすのが一番良いのだと切実に感じる。
前回の震災のときも同じような感じになったのは覚えていて、その時は地元が大変だったからボランティアをした。何か貢献できているという感覚はそうした申し訳なさをうまいこと解消してくれていたように思う。たぶん僕と似たような感覚の人は多くいて、当時はボランティアとか支援物資とかが大量にあったと思う。免罪符としてのそれらは当人には有用だけれど、時として邪魔になるのも事実で、そうした時に逆切れ的なことをされたのを覚えている。彼らにとって重要なのは免罪符。だから「弱っている人を助ける」という行為が必要なわけで、その人たちが大丈夫と言われることに対して、許せないということが往々にして起こる。多くの人は大丈夫なら良かったと言ってくれた一方で、そういう風に言う人もいたことには驚いた。
助けるとか手伝うなどの行為の中にあるエゴは出来る限り取り払わなければいけないと思っている。それは主体はあくまで他人にあるからだ。そこで自分の論理を押し出しすぎてしまうと、徹底的に破綻してしまう。常識というものはそこには存在せず、状況があるだけだ。自分が変質するきっかけには良いと思うけれど、自分の正義を押し付けたいのであれば、人を選んでする必要があるのではないか。どんなにその論理や常識に正当性があったところで、状況に見合ったものでなければ、間違いなく受け入れられないし、その人たちの価値観を尊重しなければ、そこにコミュニケーションは存在しない。他人の領域に踏み込むというのはそういうことなのだと思う。

言葉を失う周期

世の中の半分くらいの人に経験があるかもしれないと思っているのだけれど、唐突に何も言葉が出なくなる瞬間というのがある。人と実際に喋っている時はもちろんだけれど、こうして文章を書こうとするときもそうだ。単純に体内のエネルギー量の問題と言えばそうなのだが、頭の中には言葉以外と溢れていて、ごちゃごちゃとしている場合が多い。まとまっていないことをぐちゃぐちゃと吐き出すと意外とまとまるということもあるとはいえ、そういうときはわからないことがわからない状態になっていることが多いから、解決法はわかっていても安易に実行できない場合が多い。
こういう時は極度なネガティブ状態になっている可能性が高いと気付いたのは最近のことだ。大抵、なにがしか気まずい時というのはこちらが勝手にそう思っているだけの場合が多い。自分がやることなすこと全て負の方向に向かっていると思ってしまうから、改善策も失敗するのではないか、という発想になる。かくいう僕も若干体調が悪く、ナーバスになっている。生活の周期が乱れてしまうと、精神衛生上よくないのだろうなということも最近気が付いた。やはり健全な体に健全な魂は宿るものだ。
不思議なものこうやって、不安なことや気に病んでいることを書き出してしまうと、すこし体が軽くなったような気がしていて、不安というのは頭の中が整理されていない状態だというのを垣間見る。どんな目線で見ようが事実は変わらないわけで、それならばこうしてフラットな目線で見たほうが気持ち的にも楽になるのだろうと思う。
個人的な話ばかりでアレなのだが、季節の変わり目というのは体調を崩しがちなせいか、思考的にもナーバスになってきてしまう。運動しないとだめなのだなあ、なんて思うわけだ。

説教という同調圧力

どこかの本で「働くのは周りの人にきちんとしていると思わせるため」的なことが書いてあったけれど、まさしくその通りだなと言うのを実感する。人と会えばやれ働け、やれ親のすねをかじるな、などと説教をされる。その論理のある種の正当性にはこちらも気づいてはいるものの、一応こちらはこちらで成立しているのだから、と思わないでもない。
まあもう何度も書いている気がするけれど、人は自分が正しいと思うものを常識と考えてしまう節がある。もちろん経験からしか学べないのだからそれは仕方のないことだとは思うけれど、とはいえ自分の知らないものを排除しようとしてしまうのはあまり想像力が欠けているのでは、と思わないでもない。しかしこれは僕が今虐げられるような立場にいるからそう思うわけで、これが逆の立場になれば何のためらいもなく、彼らを踏みつぶすことだろう。数は正義とよく言ったものだが、自分が勝てると思った相手に対しては人間驚くほど残酷になれるものだ。自分が正道を歩いていると感じていればなおさらのことだ。
そして、その正しさは無意識のうちに周りの人に強要される。類は友を呼ぶというが、それは正義が共有されている人間の方が付き合いやすいということに他ならない。人間の軋轢というのは概してそれぞれの正義の違いでしかない。

以前、ある人を話した時に、「若いうちは自分のコピーを作りたがってしまうもの」という話を聞いたことがある。ものづくりの現場において教育というのは非常に難しくて、感性が違うの一言で片付いてしまいそうな諸々の中に何がしかの普遍的な論理を教え込んでいかなければならない。そうした個性と「基礎」の境目というのは非常に難しい。良かれと思ってしたことが相手の個性を失わせることになりうるからだ。だから個性を見極める懐の深さと、普遍性を教え込める強さの両立が求められるわけだが、それは若い人間には難しいとのことなのである。

こういう考え方に目を向けると、人の話を何でも聞いてしまいがちだが、最も伸び悩みやすいのは人の話をよく聞くいい子なのだそうだ。それも当たり前の話で、相反する正義を自分の中に多数抱えてしまえば、生きていく指針もぶれていく。成功する人はパワフルな人が多いというが、そうした活力というのは盲目的な自身の正義によるものだろう。多少辛くても、信じているものがあればできることは増えていく。近ごろの若者はやる気がない、と言われてしまうのはおそらくそれに関する時代背景の変化の問題で、ニヒリズムに満ちたバブル崩壊後を生きてきた世代には明確な正義を持つことは難しかったりする。違う価値観同士が対話をするためには互いに相手を理解するという意識が必要なのだが、一方だけそれを持っていた場合、説教という名の一方的な殲滅戦になっていく。弱者の懐の深さは弱点にしかなりえない。

そしてこの主張もある種の説教となることであろう。ただ一つ違うことは見たくなければ閉じることができるということだ。これが酒の席でのものだったらと思うと、目も当てられないことになるだろう。ただ発信することで自身の正義を確かめるという弱さはどの人にでも存在しているのだろう。

四月一日という物語

個人的にあまり嘘は好きではないのだけれど、それは嘘を吐くのが下手なので、吐かれることばかりでうんざりしてしまうことが多いからだ。些細な嘘なんて誰でも持っているものだし、それに対していちいち咎めるつもりはないけれど、いかにも悪意的な嘘を吐かれてしまうと、げんなりしてしまう。それは嘘そのものよりもその裏側にある悪意にうんざりするわけで、そう考えると嘘自体には罪がないようにも思えるが、人を欺こうとする行為というのは多くが虚栄心や利益のためだったりするので、好きではないということにしている。
ただ、どこのだれが作ったかわからない今日のような日には悪意のない嘘がばらまかれているわけでそういう意味では非常に微笑ましい日だ。どれが本当のことなのかわからないようなこの時代にあって、嘘を嘘だとわかる安心感がそこにはある。嘘、本当と言えばクレタ人の話がよく引き合いに出されるが、「嘘を吐いている」と嘘を吐く人はあまりいないわけで、そうした意味では「本当のことを言っている」と言う人よりも信用できるようにも思える。
そもそも、僕も含めて大抵の人間は不都合な真実とやらを認めることがそうそうできないわけで、その「真実」それ自体を嘘だと思い込んでしまう。人生を物語と呼ぶのはとても皮肉めいていて、どんな人でも自分を語る時には少なからず欺瞞と虚構が意図せず発生している。過去は確かに存在しているけれど、それは非常にふわふわとしているもので、見方次第ではどうとでも捉えられてしまうわけだから、その時の感情なんて表現される代物は大抵は結果論みたいなものだ。
そんなことをうだうだと考えてしまうと、それこそ心が参ってしまう。個人的には何が嘘で、何が本当かということにはあまり興味がない。虚構として語られる物語の中にも真実めいた何かが少なからず存在しているわけで、嘘だからと切り捨てることに意味は何一つして存在しない。真実は求めれば求めるほど、どこかに逃げてしまうような気もしている。
嘘だとわかっている物語は優しい。ともすれば今日という日もやさしい一日なのではないか、と思ったりもするのだ。

変わり目

気候的にはもう春の陽気で、気持ち的にはかなり華やいでいるものの、世の中には暦というものがあって、大体はそれに縛られて生きている。年と年度という二つの大きな区切りがあるのはいささか面倒だとは思うけれど、いちいちそんなことにケチをつけていても仕方がない。とまれ、明日からは新年度らしい。
そうした意味では今日のこの時というのは大晦日のようなもので、カウントダウンをしてもいいような気もするのだが、残念なことに今日も明日も平日だ。多くの人は明日も朝起きて会社に行かなければならない。変わり目と呼ぶには若干あっさりとし過ぎていて、寂しいものだが、学生は学年が変わり、社会人になれば後輩が増えるわけで、上気と落胆が入り混じったような空気を感じているのは嫌いではない。
今日と明日は大して変わらない一日でしかないし、気にしないようにすればできるものだけれど、日本人たるものそういうお祭りムードに乗っかってしまうのが一番良いわけで、落ち込んでいるなら気持ちを切り替えて、浮かれているなら兜の緒を締めて、とそうした時勢に乗っかってしまおうと思ったりする。

ブランク

英語において空白を意味するこの単語は、普段僕たちが使う時においては意味は同じでもマイナスの色が濃い単語へと変貌する。大抵能力が落ちたときに使われて、継続は力なりという言葉の強固さを示すものにすぎない。別にこの言葉に特に恨みがあるわけでもなく、僕自身がブランクを感じているから書いているに過ぎない。

男子三日会わざれば、なんていうけれど、全く持ってその通りで何気なく消耗した一日というのは、意外と重たかったりする。ましてや文章なんてものは数日書かなければすぐに感覚は鈍化してしまうのである。とはいえ、それは手なりに過ぎなくて、実は間を空けた方が頭はすっきりとリフレッシュしているから、書きたいことがたくさん出てきたりする。問題は何かと言うと、書きたいことというのが割ときちんと論じたいことだったりするから、文章強度が必要になってくるのと、それに合わせて文章をつなぐ感覚が鈍くなっていることが相乗効果となり、一気に書くのが億劫になっていく。べつにこういう何気ない思い付きを文章にするのは苦でもなんでもなくて、むしろそれよりも伝えたいことが自分の綴る文章とどんどんずれていくのを見ていく方がよっぽど辛いものだ。言語というのは確かにもやっとしたものを明確にしてくれはするけれど、その過程で削り落とされてしまうことも多くて、それゆえに救われることもあるのだけれど、がっかりすることの方が大半。それは個人の経験が一般化されると一気に陳腐になってしまう現象と似ていて、かけがえのないように感じられる自身の感覚がどこにでもあるものだと気付く絶望感を常に伴っている。

人にものを伝えることはざっくり言ってしまえばそういうことで、より大きな最大公約数を探っていくことでしかない。自分の経験や感覚をできる限り一般化してあらためて具体化する作業だ。google翻訳で日本語→英語→日本語と翻訳したときのような滑稽さがそこにはあって、似ても似つかぬもののはずが原型を全く読み取れない変化を伴っている。それは元を知っている本人からすれば、笑い話ですむけれど、はたから見ればその二度翻訳されてしまったそれが人間像と移ってしまうわけでそう考えると、外出する時のおめかしした姿はある種アバターとあまり変わらない。おそらく自分について考える時も同じで、僕から見て僕は掴みやすいアバターとして存在しているのだろう。結局のところブラックボックスの中を見ることはできないわけで、ともすれば表層化されたアイコンたちと戯れるしかないのだ。きっとその箱の中には何もない。