黒歴史現在完了進行中(仮)

自由帳みたいなもの

四月一日という物語

個人的にあまり嘘は好きではないのだけれど、それは嘘を吐くのが下手なので、吐かれることばかりでうんざりしてしまうことが多いからだ。些細な嘘なんて誰でも持っているものだし、それに対していちいち咎めるつもりはないけれど、いかにも悪意的な嘘を吐かれてしまうと、げんなりしてしまう。それは嘘そのものよりもその裏側にある悪意にうんざりするわけで、そう考えると嘘自体には罪がないようにも思えるが、人を欺こうとする行為というのは多くが虚栄心や利益のためだったりするので、好きではないということにしている。
ただ、どこのだれが作ったかわからない今日のような日には悪意のない嘘がばらまかれているわけでそういう意味では非常に微笑ましい日だ。どれが本当のことなのかわからないようなこの時代にあって、嘘を嘘だとわかる安心感がそこにはある。嘘、本当と言えばクレタ人の話がよく引き合いに出されるが、「嘘を吐いている」と嘘を吐く人はあまりいないわけで、そうした意味では「本当のことを言っている」と言う人よりも信用できるようにも思える。
そもそも、僕も含めて大抵の人間は不都合な真実とやらを認めることがそうそうできないわけで、その「真実」それ自体を嘘だと思い込んでしまう。人生を物語と呼ぶのはとても皮肉めいていて、どんな人でも自分を語る時には少なからず欺瞞と虚構が意図せず発生している。過去は確かに存在しているけれど、それは非常にふわふわとしているもので、見方次第ではどうとでも捉えられてしまうわけだから、その時の感情なんて表現される代物は大抵は結果論みたいなものだ。
そんなことをうだうだと考えてしまうと、それこそ心が参ってしまう。個人的には何が嘘で、何が本当かということにはあまり興味がない。虚構として語られる物語の中にも真実めいた何かが少なからず存在しているわけで、嘘だからと切り捨てることに意味は何一つして存在しない。真実は求めれば求めるほど、どこかに逃げてしまうような気もしている。
嘘だとわかっている物語は優しい。ともすれば今日という日もやさしい一日なのではないか、と思ったりもするのだ。

変わり目

気候的にはもう春の陽気で、気持ち的にはかなり華やいでいるものの、世の中には暦というものがあって、大体はそれに縛られて生きている。年と年度という二つの大きな区切りがあるのはいささか面倒だとは思うけれど、いちいちそんなことにケチをつけていても仕方がない。とまれ、明日からは新年度らしい。
そうした意味では今日のこの時というのは大晦日のようなもので、カウントダウンをしてもいいような気もするのだが、残念なことに今日も明日も平日だ。多くの人は明日も朝起きて会社に行かなければならない。変わり目と呼ぶには若干あっさりとし過ぎていて、寂しいものだが、学生は学年が変わり、社会人になれば後輩が増えるわけで、上気と落胆が入り混じったような空気を感じているのは嫌いではない。
今日と明日は大して変わらない一日でしかないし、気にしないようにすればできるものだけれど、日本人たるものそういうお祭りムードに乗っかってしまうのが一番良いわけで、落ち込んでいるなら気持ちを切り替えて、浮かれているなら兜の緒を締めて、とそうした時勢に乗っかってしまおうと思ったりする。

ブランク

英語において空白を意味するこの単語は、普段僕たちが使う時においては意味は同じでもマイナスの色が濃い単語へと変貌する。大抵能力が落ちたときに使われて、継続は力なりという言葉の強固さを示すものにすぎない。別にこの言葉に特に恨みがあるわけでもなく、僕自身がブランクを感じているから書いているに過ぎない。

男子三日会わざれば、なんていうけれど、全く持ってその通りで何気なく消耗した一日というのは、意外と重たかったりする。ましてや文章なんてものは数日書かなければすぐに感覚は鈍化してしまうのである。とはいえ、それは手なりに過ぎなくて、実は間を空けた方が頭はすっきりとリフレッシュしているから、書きたいことがたくさん出てきたりする。問題は何かと言うと、書きたいことというのが割ときちんと論じたいことだったりするから、文章強度が必要になってくるのと、それに合わせて文章をつなぐ感覚が鈍くなっていることが相乗効果となり、一気に書くのが億劫になっていく。べつにこういう何気ない思い付きを文章にするのは苦でもなんでもなくて、むしろそれよりも伝えたいことが自分の綴る文章とどんどんずれていくのを見ていく方がよっぽど辛いものだ。言語というのは確かにもやっとしたものを明確にしてくれはするけれど、その過程で削り落とされてしまうことも多くて、それゆえに救われることもあるのだけれど、がっかりすることの方が大半。それは個人の経験が一般化されると一気に陳腐になってしまう現象と似ていて、かけがえのないように感じられる自身の感覚がどこにでもあるものだと気付く絶望感を常に伴っている。

人にものを伝えることはざっくり言ってしまえばそういうことで、より大きな最大公約数を探っていくことでしかない。自分の経験や感覚をできる限り一般化してあらためて具体化する作業だ。google翻訳で日本語→英語→日本語と翻訳したときのような滑稽さがそこにはあって、似ても似つかぬもののはずが原型を全く読み取れない変化を伴っている。それは元を知っている本人からすれば、笑い話ですむけれど、はたから見ればその二度翻訳されてしまったそれが人間像と移ってしまうわけでそう考えると、外出する時のおめかしした姿はある種アバターとあまり変わらない。おそらく自分について考える時も同じで、僕から見て僕は掴みやすいアバターとして存在しているのだろう。結局のところブラックボックスの中を見ることはできないわけで、ともすれば表層化されたアイコンたちと戯れるしかないのだ。きっとその箱の中には何もない。

リハビリノリハビリ

先日ようようやっとパソコンが修理から戻ってきて、めでたく更新を再開することにした。ちょうど更新が滞っていた時期にそういうことになったので、完全に飽きたみたいになってしまったのがいささか心外な気もするが、そういう側面も実際にあるのだろうななどと思ったりもする。何事も休みなく続けられるのがいいことなのだけれど、休んでしまった時にしれっと復帰する能力も大事なのだとは常々思っている。たいてい三日坊主の原因はそのあたりにある。
PCが壊れてしまうと思うのが、自分がどれほどこの小さな箱に依存しているのかということだ。娯楽ということだけでなく、僕の持つほぼすべてのスキルはこれを介したものなので、本当になすすべがなくなってしまう。この期間に一つ書類を作っていたのだけれど、本当に閉口した挙句、最終的には両親のPCを借りて最終的なものを作成した。今の時代、どこかしらにはそういう機器があるから代わりのものを簡単に手に入れることができるけれど、逆に言えば探さなければいけない状況なわけで、それはある種インフラと似ている。こうした感覚は、関東に住んでいる人間なら数年前の計画停電でうっすらと感じているはずなのだけれど、おそらくもうみんなあまり覚えていない。あって当然のものがなくなるのはとても面倒なことなのだけれど、大抵は自分がどうにかする必要もなく、誰かが復帰させてくれる。そんな些細な痛みというのは割とすぐに忘れてしまうものだ。そういう意味ではいい肌感覚を思い出させてくれたように思う。
こうした「喪失」の感覚は実は非常に貴重なもので、大抵の場合、「挫折」と称され、人生の物語の中の伏線としか解釈されない。つまり、こうした概念はあくまで「成功」というカタルシスのための前座としての役割しか与えられず、単一の感覚として、多くの人は受け入れることが難しいのである。そうした性質ゆえに純粋にその感覚を味わうことも思い出すことも難しく、「この時期があったからこうなった」という非常に暑苦しい文脈でしか共有されなくなってしまうのだ。この文章も完全にそういう構成になっていて、「喪失」が何かの発見に繋がるという非常にポジティブな結論を引っ張り出しているわけだ。これは何か問題を見つけた以上、改善点を掲示しなければいけないという感覚によるもので、多くの人がそれを求めているし、そういう思考系統を持っている。何が悪いことがあれば、生かそうと無意識にしている。これはおそらく「喪失」を埋め合わせるための心理的作業でしかなくて、復興というのもそういう側面から考えるとわかりやすいように思う。
このブログは個人的にリハビリみたいなものだと思っていたのだけれど、リハビリというのはまぎれもなく喪失の補填作業であって、だからそうした側面から見ればこれを続けることによって、僕の中の何かが取り戻されているのだろう。しかし、取り戻すという感覚は非常に傲慢なように感じられてしまうからあまり好きではないからそういう言い方は避けて、新たな側面の発見程度にしておきたいものだ。ただ、今日の記事に関してはスパンが慣らし運転みたいなものだから、それを称するのは間違っていないだろう。
まあただ、みんな「失ったものを取り戻す」物語、本当に好きだよなあ、って思う。

ダイナマイトとソーシャルゲーム

戦争の話とかで、技術の進歩によって、人を殺す実感がなくなったという話があったけれど、実は同じようなことが起きている気がしていて、SNSなんかもそれと同じような形になっているんじゃないかなんて思う。この間炎上の話を書いたけれど、それ以降も定期的に炎上が続いていて、みんなどれだけストレス抱えてるんだよ、なんてのんきに考えていた。だけれど、よくよく考えてみたら、こんなことは身の回りにもいたるところで起きていて、それが実世界だけではなく、インターネットに持ち込まれただけであることに気づいた。だけれど、これは簡単に見えて以外に凶悪な代物で、せいぜい街とかクラスだった規模が一つの国ということで起こってしまう。つまりスケールが極端に大きくなってしまうわけだ。加えて、実際の行動を伴わないわけで、それはある種最初の一文のように武器の発展の経過と似ているように感じる。ダイナマイトが生産的な行動のために作られたにもかかわらず、人を殺す道具となったように、こうした電子世界もそういうものになりかけてしまっているのだろうなあ、と。傭兵の低年齢化、なんて話じゃないよね。まあ便利なものは危険なんだろうなあなどと思う。

などとひとまず思いついたので書きなぐってみた。早くパソコン戻ってこないだろうか。

パソコンがなくなるとなにも出来ないぼく

先日、私物のパソコンが盛大に壊れた。画面が真っ白になって、ピーピーなるばかり。すぐ治るものだと思っていたら、修理には一週間ほどかかるらしい。合掌。
仕方が無いから、こちらも修理を終えたばかりのアイフォーンを一日中ピコピコとやっている。画面が小さいから疲れるし、文字を打つのにも時間がかかるから、億劫で仕方が無いなあ、などと愚痴を吐きながらも今日も今日とてインターネットの海で溺れるほどの情報を浴びていた。
普段一日中パソコンを触っている時にはなにも気にならなかったことがこうして浮き彫りになってくるわけだ。一体僕は1日でどれほどの情報を貪っていたのだろう。
そして行動のほぼ全てをパソコンに依存していた僕は何一つとして生産的な行動ができなくなっていることに気づいてしまう。映像を作ることはおろか、文章を書いたり知的発散することすらパソコンがなければ満足にできない。こうしてどんどん先鋭化していったあとにあらゆる文明が失われたとしたら、どうなってしまうのだろう。
指先以外満足に動かなくなった体をへえこらと動かしてまた新しい技術に身を委ねるのだろうか。あるいはそれでもかつての栄華に思いを馳せ、いつか来るかもしれない復興を待ち続けるのだろうか。
それは意外と遠く無い未来に起こるのかもしれない、などと思ったりする。

「失敗」しなくなることで落胆はなくなるのではないか

はじめに

僕は昔から割と落ち込みやすい方で、ちょっとしたことですぐにへこむ。
幸いなことにひどい失恋などはしたことはないが、挫折は多い人間である。

個人的に、落ち込むことは感受性の表れだから悪いことではないと思うけれど、それがあんまりにも長引くと流石に支障が出てくる。
話すたびに愚痴を吐かれたりすれば周りの人も自然と距離を取ってしまうわけだ。
そうなると余計に落ち込んだり疑心暗鬼になってしまうわけで、完全に負のスパイラルに入ってしまう。できればその前にサクッと処理しておきたいもの。

かくいう僕も現在かなりへこんでいるわけで、それの気分転換としてこの記事を書いている。普段からこんなこと心掛ける必要もないけれど、底なし沼に沈められているような気持ちの人はこれを読んですっきりしてもらえればうれしく思うし、普段あまり落ち込まない人はこういう人もいるのか、と生暖かい目で見守りつつ、いわゆるメンヘラに対しての理解を深めてもらえれば幸いである。

なぜ落ち込んでしまうのか

もちろん人によっていろいろ理由はあるのだと思うが、個人的にがっかりしてしまうことを3つほどあげてみる。

  • 対価に対して、正当な報酬を得られない
    • 例)努力が報われない、など
  • 外的な原因で、できるはずのことができなくなってしまうこと
    • 例)金銭的な理由で進学できない、など
  • 昔出来たことができなくなってしまう
    • 例)体が思うように動かなくなった、など

経験がある人も少なくないのではないだろうか。
この3つに共通のこととして、自分の想定よりも結果が悪いということである。ざっくりいうと「こんなはずじゃなかった」状態ということだ。自己評価と結果とが大きく離れていることによって、どんな結果にしても「失敗」と認識してしまうことが落ち込みの大きな要因である。「成功」が自信をつけるように、「失敗」は自信を失わせる。その自信の喪失こそが落ち込みの大きな原因なのである。

「失敗」を認識しないことが落ち込まないための秘訣

今まで見てきた中で落ち込まないように見える人は少なからずいる。俗にいうタフな人というやつだ。

ただその中でも二通りタイプがあって、

  • 「失敗」を繰り返す人
  • 「失敗」を糧にできる人

といるわけだ。

落ち込まない人の共通点としては見出しに書いたように、「失敗」を「失敗」と思わないことなのだが、その捉え方が両者では大きく異なる。
「失敗」を繰り返す人というのは、文字通り「失敗」を認識せずになかったことにしてしまうわけである。要するに人の話を聞き流す能力の高い人だ。こういう類の人は怒られても気にもかけないので、確かに非常にタフである。

対して、後者は「失敗」をハナから計算に入れているのである。常に最悪の事態を想定して、リスクヘッジを行っているから、ちょっとした「失敗」ではあまり大きな動揺を伴わない。だからそういう事態が起こっても冷静に対処をして、被害を最小限に抑えることができるし、次のステップへもスムーズに進むことができる。

人間が追い込まれるのは選択肢がないと感じているときである。だから、選択肢を増やして保険をかけておくという考え方の後者は追い込まれづらいのだ。
しかし、こういう考え方は一朝一夕に身に着けられるものではないし、そもそもそれができているのであれば、最初からひどく落ち込むことなんてないのである。
僕もできないから落ち込んでいるわけで、じゃあ落ち込んだらどうすればいいのか、という話だ。

落ち込んだ時のための対処の仕方

何事においても時間が解決してくれるというけれど、やっぱり先の長い話だ。何をするのもだるくなって、家でゴロゴロしていたらどんどんと悩んで、落ち込んでしまう。
だからひとまずは体を動かしてみることだ。別に外に出かけるでもいいし、文字通り運動するでもいい。ひとまずそこから頭をそらしてみるのである。
その場凌ぎと言われてしまうかもしれないけれど、意外と重要なことで、悩んでいるうちというのはかなり感情的になってしまっているから、そこから一度目線を逸らすことで、その「失敗」を客観的事実として捉えることができるのである。
これはお葬式のときなどにもよく言われることだが、喪主は故人を悲しむ暇もなく、後始末に追われることで「死」というものを事実として認識するのだ。
だから、ひとまずはいったん目を逸らして、視野を広く持ってみたほうがいいだろう。

また体を動かすことによって、睡眠をきちんと取ることができるようになるから、規則正しい生活になっていく。健全なる精神は健全なる身体に宿ると言うが、まずは健康な生活を心がけることだ。一般に精神病と呼ばれるものの多くは脳内物質が適正に分泌されていないことから起こるものである。
「落ち込んだら、上手いもの食ってさっさと寝ろ」などと僕もよく言われたものだが、ひとまずはその助言を聞いて見るのも手なのではないだろうか。

おわりに

まあ、人間それなりに生きていれば「失敗」はつきものである。それで落ち込むのも当然のことだし、それでこそ人間らしいと思うわけだ。
古くからの物語の多くは「挫折からの復興」なのである。とはいえ、やっぱり一度転んでしまうとやっぱり起き上がるのは大変だし、その過程で歪んでしまうこともあるだろう。
だれでもそんなことをできるわけではないのだ。
だけれど、一度きりの「失敗」で絶望してしまうのは早いような気もするし、それで大きくこじらせてしまうのももったいないと思うわけだ。
だから、自戒も含めてこんな記事を書いてみた。

ひっくり返してしまうようでアレだけど、個人的にはたくさん失敗していっぱい落ち込んでしまえばいいと思うのだ。
だって、それは生きている以上逃げ切れないことなのだから。
だけれど、起き上がるのはこういった小手先の技術で意外とどうにかなる。
だからいっぱい転んで、いっぱい起き上がれれば、その分それっぽい人間になるんじゃないかなあ、って思ったりするわけです。
というわけでへこんだ人の気分転換になれば、何よりかな。